映画作家自身の分裂した姿を見る体験
同じイタリアの映画作家だからというわけでもなかろうが、モレッティの落ち着かなさ、居心地の悪さ、そしてその裏返しでもある過剰な自己顕示欲は、国際的名匠のフェデリコ・フェリーニ(1920-1993)を想起させる。
ユーモア、妄想、皮肉さ、憂鬱さ、傲慢さ、我儘さが渾然一体となったシナリオ。人間嫌いを気取る主人公のまわりには、いつも主人公に用事のある者たちがくっついてきて、ぐるりと主人公を取り囲み、何かを要求したり聞き出そうとしたりする。モレッティ映画の主人公も、フェリーニ映画の主人公も、彼らをうるさい連中だと軽視しつつ、適当にあしらって足早に立ち去るのだが、次のカットではまた別の用のある人物が主人公を呼び止め、主人公の大事な会話をさえぎる。
私はもううんざりだ。誰とも話したくないし、放っておいてほしい。早く死にたい。でもみんなが私を放っておいてくれない。何かと用事を持ってくる。鬱陶しいし、引っ叩きたくなる。――しかしながら、この鬱陶しい状況はじつのところ、主人公にとってまんざらでもないものである。
人々が主人公のまわりで品を作り、カメラ前でわざとらしくポーズを取る。フレームの中に押しかけてきて、うるさいセリフをしゃべる。そしてこのインフレーションのすべてが皮肉な形で主人公の分身となっており、もっと明確に言うと、品を作り、ポーズを取る人々の群れは映画作家自身の分裂した姿、複数化した変容体であり、この状況の形成されたフレームそれじたいもまた作家自身の分身である。