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弱さの象徴としての悪魔ー脚本の魅力

『エクソシスト』のワンシーン【Getty Images】
『エクソシスト』のワンシーン【Getty Images】

 さて、筆者は前ページで、悪魔が「目に見えないもの」であると述べた。では、悪魔とは、一体何のモチーフなのだろうか。この謎を解く手がかりとなるのは本作の前半で描かれるカラス神父と母親をめぐるエピソードだ。

 ジョージタウンに住む彼は、ギリシャからの移民である病身の母親を故郷に残し、1人遠方の教会に赴任している。しかし、清貧の身である彼には病身の母に十分なケアを施すことができない。そして結局、彼は母を病院に押し込めたまま死なせてしまう。この辛い経験から彼は神の存在を信じることができなくなってしまう。

 悪魔はそんな彼の逡巡に付け込もうとする。モーゼの十戒が説く「汝、姦淫するなかれ」に背き「神とファックできるか?」と罵倒するのだ。そして、メリン神父が部屋を出たタイミングを見計らってカラス神父の母親に擬態し、彼に甘い言葉を吐きかける。つまり悪魔とは彼の中に巣食う心の弱さの権化なのだ。

 一方、カラス神父とタッグを組むメリン神父は、いついかなる場合も神への信心を忘れない敬虔なキリスト教徒のように思える。現に彼は、悪魔の言葉に耳を貸そうとするカラス神父に、「悪魔は我々に人間が救うべき存在ではないと思わせようとしている」と述べ、悪魔の言葉に耳を傾けないよう諫言する。

 しかし、本当に強い信仰心を持っているならば、そもそも悪魔の言葉に耳を傾けようと決して揺るがないはずだ。つまりこの言葉は、彼の信仰心の脆さの裏返しでしかない。

 かくしてメリン神父は、儀式中に心臓発作で斃れてしまう。神は沈黙したまま、カラス神父の前に一向に姿を表さない。そして、ここではじめて悪魔の存在を確信した彼は、悪魔に自身に乗り移るように命じ、窓から投身自殺を図る。

 周知の通り、キリスト教では、自殺は信仰に背く行いとして違法視されている。しかし、カラス神父の場合は、むしろリーガンを救うために行った自己犠牲の感が強く、自殺と決めつけるのはいささか短絡的だろう。

 あるいは、この行動については、彼のこれまでの罪に対する贖罪という見方もできるかもしれない。現にキリスト教では、死は神の存在を信じない者に与えられるとの考え方がある。神を信じないことが結果的に1人の少女を救ったのだ。

 つまり、本作は、ホラー映画である以上に、1人の男性の贖罪と自己犠牲の物語でもあるのだ。そして、自己犠牲とは身を賭した愛のことでもある。

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