「不気味なもの」がうごめく夢ー脚本の魅力
先述の通り本作は、オーストリアの小説家シュニッツラーの『夢小説』が原作になっている。医師が真夜中の町を彷徨うというあらすじも、舞台がウィーンからニューヨークに変わっていること以外ほぼ一緒だ。
しかし原作は「夢小説」というタイトルにもかかわらず、夢を見ている描写も夢から覚める描写も登場しない。ただ官能的で奇妙なエピソードが散発的に繰り返されるのみで、夢についての直接的な言及がないのだ。
ここから考えられる答えはただ一つ。この小説が、夢の内容「そのもの」を描いているということだろう。
シュニッツラーの作風は、同時期に活躍した精神分析家ジークムント・フロイトの影響を受けたといわれている。『夢判断』などの著作によれば、夢とは「抑圧された願望の充足」を目的に、無意識が作り出すものだという。
「願望の充足」というテーマは、本作でも大きなテーマになっている。例えば、ビルが性体験を求めて街を彷徨う様子は彼の浮気願望を如実に表しているし、仮面をつけてビルとセックスをするというアリスの夢は彼女自身の欲求不満を表しているといえる。つまり2人は、夢の中でセクシャルな関係を修復しようと試みているのだ。
しかし、この夢も決して願望充足のみで成り立っているわけではない。例えばビルは、夜の街を彷徨する途中、大学生のグループにぶつかってオカマ野郎と罵られる。そして、謎の仮面パーティーに参加したビルは、口外を疑われ、謎の男に終始付き纏われる。そこかしこに他者の影がうごめいているのだ。
言うまでもなく夢の世界は、「夢の主」の願望から作り上げられた「100%自分」の世界だ。しかしそんな夢の世界を自分以外の誰かが操っていたとしたら。あるいは夢の世界の向こう側で、見知らぬ誰かが「大きく目を見開いて(eyes wide open)」いたとしたら…。キューブリックはそんな恐怖を表現しようとしたのかもしれない。