滅びかけた高貴さに向ける視線。ルキーノ・ヴィスコンティの系譜
映画の後半で彼らは、みごとな大理石の女神像を発掘するのだが、地上へ運搬するためにあろうことか、女神の首を切断してしまう。映画を見るわたしたち観客としては思わず声を上げかねないショッキングなシーンである。それにしても彼らに向ける作者のまなざしは、ここでも裁きや叱責ではなく、Lamento(嘆歌)としてある。先述の『オルフェオ』に次ぐ、モンテヴェルディの2番目のオペラ『アリアンナ』の中のLamentoの歌詞――
わたしを死なせて
これほど過酷な運命の中に在り
これほど大きな苦しみの中にいるわたしが
何によって
慰められるのでしょうか?
アリアンナの嘆き。斬首された大理石の女神像もその嘆きを共有するだろうか。映画を見る観客はもう薄々勘づいているかもしれない。姿をくらました婚約者ベニアミーナは極上のダウジング術をもってしても見つけられないのだから、彼女はもう冥界にいるのだろう、と。だから世界最初のオペラ『オルフェオ』の主人公オルフェオ(オルフェウス)が冥界に下りていって、愛するエウリディーチェを迎えにいったのと同じことをするために、アーサー=アルトゥールは墓という墓を這いずり回り、声にならないLamentoを人知れず歌い上げているのではないか、と。
孤独なアーサー=アルトゥールの理解者がまったく存在しないわけではない。この集落では異邦人としてしか見られていないブラジル人らしき女性イタリア(カロル・ドゥアルテ =ブラジル名ではカロウ・ドゥアルチ)が彼を愛し始めているように思える。
この異邦人の名前がイタリアだという皮肉な二重性も、アーサー=アルトゥールが抱える二重性と符合する。そしてイタリアが仕える元オペラ歌手の貴婦人フローラ(イザベラ・ロッセリーニ)。老朽化した城館に住むこの没落貴族の末裔は、前作『幸福なラザロ』における荘園領主の没落貴族タンクレーディが貴種流離した登場人物と言っていいだろう。この滅びかけた高貴さというものに、アリーチェ・ロルヴァケルはどうしようもなく囚われている。
そんなことに拘泥する映画作家は、ルキーノ・ヴィスコンティ没後は現存してはいない。ロルヴァケルの特異性が前作のタンクレーディ、本作のフローラの中に見出せる。