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心情の機微を捉えるために必要とされた133分という上映時間

Seacia Pavao / (C) 2024 FOCUS FEATURES LLC.
Seacia Pavao C 2024 FOCUS FEATURES LLC

 周知の通り、アカデミー賞をはじめとする映画祭においてアレクサンダー・ペインの映画は常に高い評価を獲得してきた。前作『ダウンサイズ』(2017)以来6年ぶりの監督長編作となる本作『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』もまた、全米で数多の映画賞を受賞した。

 これまでのペイン映画の受賞は、その大半が俳優賞・脚本賞・脚色賞といった俳優と脚本をめぐるものだ。こうした傾向は、珍しくペイン自身が共同脚本にクレジットされていない本作でも変わらない。冒頭部からも濃厚に感じ取れる70年代映画へのオマージュも見どころの一つではあるが、本作最大の見どころはやはり、主演3人の交わす言葉と、彼らが休暇中のバートン校でともに過ごす時間の切り取り方にあるだろう。

 たとえば、133分という上映時間をどう捉えるべきか。あたかも編集作業を放棄しているかのような、2時間半前後の長尺作品が幅を利かせる近年の傾向には嫌気が差すが、本作について言えば、2時間を超える尺には必然性があるように思える。

 ペイン映画では、わかりやすい事件や出来事が、登場人物間の関係性や彼らの認識を決定的に変容させてしまうことは決してない。映画全体を通じて強調されるのはむしろ、一見取り返しのつかないように思えた大きな事件や出来事を経たあとで、わずかな変化とともにそれでも続いていく日常や生活の方である。

 人間は、そう簡単には変わらない。しかし、誰かと真剣に関わろうとし続ける過程で、変わろうと一歩を踏み出すことぐらいはできるかもしれない。ほんの少しずつ歩み寄ろうとする主人公たちの心情の機微を捉えるためには、一見無駄にも見える些細なやり取りを長時間見つめ続けることが必要なのだ。

 冗長さをギリギリ感じさせず、愛着を持てる形で登場人物たちそれぞれの不器用さを執拗に捉えるペインの演出は、ご都合主義とは無縁のリアリティに溢れている。

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