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無視できない細かな違和感

Seacia Pavao / (C) 2024 FOCUS FEATURES LLC.
Seacia Pavao C 2024 FOCUS FEATURES LLC

 だが一方で、またしてもおっさんの孤独を長々と見せつけられるのか、と興ざめする向きもあるかもしれない。『アバウト・シュミット』(2002)以降のペインは、基本的にある程度経済的に恵まれた白人中高年男性の孤独に焦点を当て続けてきた。

 差別や抑圧を受けるマイノリティたちがアイデンティティや自由の獲得に向けて闘争する映画が日々制作されている近年の状況に照らして、異性や家族とのコミュニケーション、本当の夢と現実の仕事とのギャップといったペイン映画の男たちにとっての悩みが、いくら当人にとって切実なものであっても、多くの観客にとって相対的に些末なものと映りやすくなっていることは間違いない。

 もちろん、ペインと脚本のデヴィッド・ヘミングソンがそういった風潮を完全に無視しているわけではない。まず彼らは、『サイドウェイ』(2004)に続いてジアマッティを起用することでルッキズムの問題を導入し、さらに斜視や体臭をめぐる疾患など、容易に変更できない身体的特徴と関わる苦しみを強調することで、ハナムの悩みにある種のマイノリティ性を付与している。だが、こうした外見上の特徴づけが彼のマジョリティ性を隠蔽する言い訳以上の効果をあげているかは疑問が残るところだ。

 またアフリカ系女性のランドルフは、本作でアカデミー賞やゴールデングローブ賞を射止めたのも納得のいく、きわめて印象的な演技を見せている。ただ彼女の演じた役柄は、ベトナム戦争で子供を亡くした親としての視点については掘り下げられていても、人種やジェンダーをめぐるバックグラウンドについては、むしろあまり表面化させないような演出が採用されているようにも見える。

 社会よりも個人に注目させるという意味では、こうした演出は一方では奏功しているとも言える。だが、あえて意地の悪い言い方をすれば、キング牧師暗殺から2年足らずの1970年を舞台と設定しつつも、映画に人種や性をめぐる偏見をほとんど介在させないことは、それ自体いかにもアカデミー賞の審査員が好みそうな、近年の人種観やジェンダー観によって密かに修正されたアフリカ系や女性に対する都合の良い見方であるようにも感じられる。

 これら細かな違和感を無視することは難しい。結局のところ、表面上どう見せたいかは別として、ペインの中心的な関心は昔も今もおそらく、現在正面から扱うことがきわめて難しくなりつつあるマジョリティ、ブルジョア白人中高年男性の当事者性と密接に結びついている。しかし、そんな男たちが抱きがちな苦しみの繊細な扱いにかけては、ペインはいささかも錆びついていない。

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