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座右の書『自省録』から読み解くハナムの行動原理

Seacia Pavao / (C) 2024 FOCUS FEATURES LLC.
Seacia Pavao C 2024 FOCUS FEATURES LLC

 ハナムは、アンガスやメアリーと一歩ずつ打ち解けていくなかで、なんとか生真面目で杓子定規な自らの態度を少しずつ変えようとする。そんな彼の苦闘ぶりをとりわけユーモラスに示すのが、クリスマス当日のエピソードだ。近所でモミの木をこっそり購入したものの、それ以上は頭が回らなかった彼は、一切の飾り付けを忘れていることを指摘されてしまう。

 また、2人とも喜ぶはずだと思って、アンガス、メアリーそれぞれに全く同じマルクス・アウレリウス『自省録』をプレゼントしてしまい、2人に呆れられる。実際に『自省録』を贈り物にしたこともある筆者は、この箇所で苦笑いするしかなかった。

 さらにラスト間際の一場面では、画面に段ボール1箱分の『自省録』がさりげなく映り込む。そこでは、ハナムがおそらくはこれまでにも何人かに同じプレゼントを渡してきたという恐るべき可能性が示唆される…。この不慣れなケアに挑もうともがくハナムのドタバタぶりを見事に活写した一連のシーンは、まさに男たちの不器用さをつぶさに見つめてきたペインの面目躍如といえよう。

 ところで、ハナムが『自省録』を座右の書としているように見えることには、単に彼の空気の読めなさを示す符牒以上の含意があるだろう。たとえば、同書にはこんな一節がある。

「人間には、人間的でない出来事は起こりえない。牝牛には、牝牛にとって自然でない出来事は起こりえない。葡萄の樹には、葡萄に自然でない出来事は起こりえない。また石にも、石に特有でないことは起こりえない。かように、もし各々のものにおきまりの自然なことのみ起るのならば、なぜ君は不満をいだくのか。宇宙の自然は君に耐えられぬようなものはなにももたらさなかったではないか」(『自省録』第八巻四六)。

 樫村晴香も指摘する通り、人間を客体化したマルクス・アウレリウスにとって、人間の全ての愚かしさは必然的連関の中にあり、了解可能である。しかしこの文が本当に言うのは、人間も牝牛も葡萄も石も同じだという、存在への無関心と失意であり、それ以上に、そのことを牝牛や葡萄に向けてくり返し言い、反復し循環し、欲動に回帰し退行することで子供じみた復讐をなしとげる、その感覚の幸福である(「ストア派とアリストテレス 連続性の時代」)。

 詳細は伏せるが、映画の後半ではハナムが夢を諦めた顛末が明かされる。学生時代にトラウマ的な出来事に遭遇したことで彼は、同じくジアマッティが演じた『サイドウェイ』の主人公で教師のマイルス同様に、いつか本を書きたいという願望を抱きつつも、母校の講師として働き続けることとなった。

 不本意な立場を甘受して生き続けてきた彼にとって、『自省録』を贈ることは、自身が「聖書、コーラン、ギーター(ヒンドゥー教の聖典)がひとつになったような書物だ」と激賞する一冊の価値を共有したいという心情の表れであるだけではなく、「存在への無関心と失意」をくり返し言うことで子供じみた復讐をなしとげようとする、攻撃性の発露をも意味していたのではないか。つまり、この時点で彼の行動原理は、『自省録』の記述が推奨する態度からは遊離しはじめていたように見えるのだ。

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