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当事者性から出発しつつも普遍性を志向する映画

Seacia Pavao / (C) 2024 FOCUS FEATURES LLC.
Seacia Pavao C 2024 FOCUS FEATURES LLC

 起きた出来事に一切不満を抱かず、全てを耐えること。戦争や執務に忙殺されていたマルクス・アウレリウスが辿り着いたこの哲学を共有するかのように、バートン校でかつての教え子の部下として忙しく働くハナムは、学生や同僚にいくら嫌われても、周囲への無関心を貫いてきた。その存在への無関心は、映画全体が採用する人種やジェンダーの視点への無関心ともどこかで通底するものだ。

 しかし彼は、無駄で冗長とも思えるクリスマス休暇の時間を他の2人と過ごすなかで、学校や親に反感を抱く若いアンガスや、息子を戦争で失いやり場のない怒りや悲しみと生き続けるメアリーに触発されて、怒りや不満を含む感情を徐々に取り戻していく。そうした緩やかな過程を丁寧に掬い取るペインの職人芸は、本作でも見事に冴え渡っている。

 もちろん、感情を取り戻したからといって、ハナムがその後幸福に暮らしたかどうかは全くわからない。彼の社会的地位をめぐる状況は何も変わっていない。むしろ悪化している。けれども、映画の最後にアンガスと力強く握手するハナムの顔には、間違いなくある種の充実感が滲んでいる。

 ギリギリのところで人と関わることを諦めずにあがき続けたハナムに伴走してきた観客にとって、それ以上の派手な身振りや感情表現は必要ない。白人でも中年男性でも裕福でもない観客もまた、ハナムの表情から、彼がほんの些細ではあるものの、その後生き続ける支えの一つにもなり得るような、ある変容を経験したことを確信するだろう。

 あるいは今後ハナムは、新たな環境になじめず、再び存在への無関心に陥り、周囲から引きこもろうとするのかもしれない。しかし、確かなのは、それでも彼がアンガスやメアリーと育んだ信頼の価値が色褪せることはないということだ。

 当事者性をめぐる近年の潮流への本作の対応には、裏目に出ている部分もないとは言えない。だが結局のところ、人間は誰もが皆、孤独と病に苦しみ、やがて老い死んでいく。その意味で、ハナム、アンガス、メアリーがそれぞれに抱く不安や苦しみは、あらゆる観客にとって決して他人事ではない。そして同様に、彼らが苦しみを共有することで束の間勝ち得た喜びもまた、すべての観客に開かれているだろう。

 あらゆる表現に当事者性と同時代性が求められる傾向は、日々強まりつつある。だからこそ、ある種の当事者性から出発しつつも普遍性を志向する、かつてのアメリカ映画を思わせる『ホールドオーバーズ』のような作品に身を浸す時間が、むしろより貴重なものとなりつつあるのではなかろうか。

(文・冨塚亮平)

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