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カウリスマキの映画史

映画『枯れ葉』
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 ネットカフェで見つけた求人広告を頼りに向かった食堂で無事再就職を果たしたアンサは、ある日の帰宅時にバス停でホラッパを見かけるが、酔い潰れて寝ていた彼と再び話すことはできない。しかし、はじめての給料日になるはずだった日、目の前で逮捕される上司を呆然と見送る彼女の前に、おそらくは昼から酒を飲みにきたホラッパが再び現れる。

 二人はカフェに寄った後映画館へと向かい、カウリスマキの盟友ジム・ジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』(19)を鑑賞する。映画館を真っ先に出てきた中年シネフィルたちが、この映画はロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』(50)に似ている、いやジャン=リュック・ゴダール『はなればなれに』(64)だ、と激論を交わす姿が笑いを誘うこのシーンでは、たとえば『パラダイスの夕暮れ』におけるビンゴ会場のように、一見完全な失敗かに見えた名画座での映画鑑賞というホラッパのデートコース選びがなぜか功を奏す。続けて劇場を出てきた二人は意気投合し、彼は映画を気に入ったアンサとはじめて良い雰囲気となる。

 われわれ観客にとって、ホラッパを演じるユッシ・ヴァタネンの面長な顔がどことなく『デッド・ドント・ダイ』に主演したアダム・ドライバーと重なって見えてきたところで、アンサは彼に自分の携帯電話の番号を書いたメモを渡し、二人は別れる。上々の初デートを終え、ほっと一息つこうと煙草に火をつけようとするホラッパ。だが、あまりにもそそっかしい彼は、その瞬間今もらったばかりの大事なメモを地面に落としてしまう。『マッチ工場の少女』ほどあからさまではないにせよ、直前に言及されたブレッソンからの影響を感じさせる手の動きに焦点を当てた撮影がこれら一連のアクションを捉えた後、画面には風を受けて黒い地面を転がっていく白い紙が映し出される。

 ここでカウリスマキは、携帯電話が普及した後でどうすればすれ違いのメロドラマを成立させられるのか、という以前の労働三部作の時点では存在しなかった困難な問題に対して、一つのアクロバティックな解答を驚くほどの図太さで示している。「捨てること」をめぐる見事な主題的連関が、そもそも今時なぜ手書きのメモを渡したのかというツッコミを許さない。あくまでも、メモが誤って「捨てられて」しまうからこそ、二人が再び会うきっかけは完全に失われてしまうのだ。

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