映画『フュリオサ』が“真の傑作”である6つのワケ (3)前作への批判を内包したジョージ・ミラーの演出に注目
世界中で大ヒットを記録した映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の前日譚となる、映画『マッドマックス:フュリオサ』が公開中だ。期待されていたような興行成績が残せず、ファンの間でも評価が分かれている本作が「前作と同じくらい大切な作品」である理由とは? (文・山田集佳)<あらすじ キャスト 考察 解説 評価 レビュー>
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【著者プロフィール:山田集佳】
フリーライター。児童向けゲーム雑誌の編集を経て、現在はおもにゲームと映画についての記事を執筆。ゲームシナリオ等も手掛ける。映画やドラマについての情報を毎週紹介するIGN JapanのYouTube番組『銀幕にポップコーン』にレギュラー出演中。
『怒りのデス・ロード』への批判を内包した『フュリオサ』の語りに注目
イモータン・ジョーの支配は『怒りのデス・ロード』では乗り越えるべきものであり、もちろん映画を見たほとんどの人はそれを理解している。しかし、同時にイモータン・ジョーの生み出したシタデルの熱狂は、あまりにも魅力的すぎた。
支配のための物語を印象的な様式に落とし込み、兵士たちに与えて物語と一体化させる。熱狂のうちに死ぬための物語を用意されたウォー・ボーイズとは対照的に、母乳を搾取される女性たちにも貞操帯を着けられた妻たちにも、そんな魅力的な物語は用意されない。家父長制に覆われた社会におけるジェンダーの不均衡が、映画の中にも外にも、明確に示されている。
そして、前作からの9年間の間に起きた現実の出来事――たとえばドナルド・トランプのような、演出されたカリスマと分断によって生まれる混乱と支配の実践――は、その熱狂と物語が持つ強烈なパワーを、証明してしまった。
以上の指摘は、一言で言うなら「『怒りのデス・ロード』は映画として面白すぎる」という難癖としか言いようのない批判だ。けれども驚くべきことに、『フュリオサ』におけるジョージ・ミラーの語り口は、そんな批判への返答すら内包しているように、私には感じられた。
フィルムのところどころに、前作にあったスリリングで刺激に満ちた瞬間への反省的な態度が刻み込まれている、とでも言えばいいだろうか。
(文・山田集佳)
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