『怒りのデス・ロード』に覚えた“違和感”の正体
『怒りのデス・ロード』は、家父長制度から逃れ、自らの人生を見つける人々の物語である。シリーズを通しての主人公であるマックス(トム・ハーディ)は、かつてヒューマンガスから石油掘削所の集落を守り、バータータウンから子どもたちを助け出して新天地に向かわせたように、要塞・シタデルを支配するイモータン・ジョー(ヒュー・キース・バーン)に囚われた妻たちと、妻たちを逃がそうと試みるフュリオサ(シャーリーズ・セロン)に手を貸すことになる。
イモータン・ジョーの支配力と手腕の鮮やかさは、フィルムの中に強烈に焼き付けられている。彼は水やオイル、食料を掌握するだけではなく、希望なき世界に生きる人々に陶酔できる物語を与え、支配を一層強固にする。
山と積まれたメタリックな輝きを放つ車のハンドル、手のひらを頭上で交差させて「V8」と叫ぶその様式。呼吸を補助するユニットも含めたアーマーをまとったイモータン・ジョーの威容は、死をも恐れぬ軍隊であるウォー・ボーイズたちが信仰するにふさわしく厳めしい。
死の間際にあれば、ウォー・ボーイズは銀のスプレーを口に噴射し、「俺を見ろ」と宣言して喜んでバルハラへと向かっていく。そういったイモータン・ジョーの手際のすべてが、ジョージ・ミラー監督によるファンタスティックな想像力に支えられ、エキサイティングな映像となって観客を魅了する。なんて刺激的な映像だろう、そして驚くほど魅力的な設定だ!
しかし、熱狂に包まれる劇場やネット上で、前述したように、私は小さくない違和感を覚えるようにもなっていた。イモータン・ジョーがウォー・ボーイズを支配するための「V8」のサインを真似して劇場で一体感を覚え、あるいはイモータン・ジョーに目線を貰ったと喜ぶウォー・ボーイズに共感する。フィルムに刻み付けられた感情を、スクリーンを通じて自分のものとして感じること。それは、映画が生み出す奇跡とも言える成り行きだ。でも、その陶酔に身を任せた結果、一体何が起こるだろうか? その危険性をこそ、この映画は描いているのではなかったか?