戦争の始まりと結末しか描かれないワケ
決定的な部分をカメラの正面に持ち出さない態度は、フュリオサの感情以外の部分にも徹底されている。それは終盤で描かれる「40日戦争」において顕著だ。
劇中でおそらくもっとも大きな戦闘であるこの戦争は、薔薇戦争や阿片戦争など、かつて実際に起きた戦争と同じように歴史の一部として語られ、その始まりと結末しか描かれない。
ディメンタスの作戦がイモータン・ジョー側に暴かれて罠をかけられた時点で勝敗はほとんど決しているのだから、戦争の中身を描く必要がない、という論理は理解できる。ギターをかき鳴らして兵士を鼓舞するコーマドーフ・ウォーリアーが、画面の右端の方にぽつんと存在するショットは、前作で惹起された興奮を絶妙に冷ましていく。
近年のスーパーヒーロー映画のクライマックスで見られるような大合戦シーンの代わりに画面に映し出されるのは、戦争がもたらす決定的な結果、つまりは荒廃だ。戦いそのものは決して描かずに――それはおそらく、ジョージ・ミラーの手にかかれば手に汗握るスペクタクルとなるだろう――、戦いの末に残されたものだけを、この映画は砂煙の中に描き出す。
限られた資源をかき集めて作った車両たちの残骸、砂状に倒れ伏す人々。暴力の結果は、英雄の悲劇的な死ではなく、ただただ沢山の死と瓦礫なのだと。
40日戦争が終わりを迎えた頃、敗走するディメンタスを追うために、フュリオサはシタデルの住人の虎の子の車に乗って前線に向かう。その車は右後輪のタイヤを失っているが、前線にたどりついた際には、その車両はリクタス将軍の車の一部となる。そして、リクタス将軍のものだった車は、フュリオサによって奪われる。複数の人々の不完全な物語の断片をつなぎ合わせたその集積こそが、後の人々にとっての歴史になっていくのだと言いたげに。