未成年者と年長者のカップルを描くことの意義
本作が長編デビューとなるサミー・バーチによる重層的な脚本は、あたかもはじめからヘインズが監督するために書かれたもののようだ。まず主人公カップルへの周囲の目は、部分的にヘインズの過去作における同性愛カップルたちへのそれと重ねられる。
もちろん、現実ではモデルとなった2人は生徒と教師であり、当事者間の権力勾配の問題からも性行為の同意を正当化することは不可能だ。だが、本作の脚本は巧妙にも2人の出会いの場をペットショップへと変更し、さらにエリザベスの問いかけに答えるジョーに、「被害者として見られるが関係は長年続いている、僕が望んだんだ」、と一度は語らせる。
そのことで映画は、周囲から非難され否定され続けてきた彼とグレイシーのカップルを、ヘインズがこれまで繰り返し扱ってきた、いわれなき差別と偏見に晒される同性愛カップルたちの系譜に一度は位置づけるようにも見えるのだ。
近年LGBTQといった用語が広く人口に膾炙し、性的指向の多様性がある程度社会的に受け入れられる環境が整いつつあるなかで、クィアな関係性を肯定的に描く映画も増えてきている。しかしながら、そんななかでもメイ・ディセンバー、とりわけその1人が未成年である場合のカップルは、異性愛であっても当然ながらきわめて大きな反発を受けるだろう。
ヘインズは一貫して、自らを含む同性愛の当事者が受けてきた差別を、過去の特定の時代に重ね合わせて問題化してきた。だが、二者間の親密な関係性が当人以外の社会や世間に否定される状況を現代劇で扱うには、いまや彼にとって未成年者と年長者のカップルこそ、大いに問題含みでありつつも同性愛以上に興味深い題材であると言えるのかもしれない。