「広島と長崎を映さない」という選択に潜む“忖度”
ロス・アラモスというお城の中で起きたことは、『オッペンハイマー』という映画を議論の渦中に招くことになる。原爆開発に成功したあと、オッペンハイマーは多幸感に満ちたロス・アラモスの従業員たちの前で勝利宣言のスピーチをおこなう。
当然のことだ。この点は史実なのだろうし、私たち日本の観客がとやかく文句を言っても始まらない。しかし、喝采を送る聴衆にストロボのような強烈な光線が当たる画面効果がほどこされ、さらに聴衆女性の顔面の皮膚がめくれ上がっていくイメージとなる。栄光の絶頂の中でオッペンハイマーが自分たちの発明に疑問を抱く発端となる重要なシーンである。
ところが、めくれ上がる女性の皮膚は、広島、長崎の被爆者たちのこうむった被害の再現ではない。薄くて清潔なパラフィン紙のような皮膜がさらりとめくれ上がり、まるで化粧品のCMのようだ。原子爆弾投下の重大性を矮小化したショットだと言える。
そして、すでに世界中の論壇で議論の的となっている、爆心地の惨状を写した記録フィルムの上映会にあって、オッペンハイマーが画面を見ることに耐えられなくなって目を伏せてしまうショット。そのあとに爆心地の惨状を写す画面はない。
これは写さないことで想像させる演出だという擁護論も散見されるが、じっさいのところは、ショッキングな映像でアメリカ国民の気分を害するような編集は好ましくないという忖度のなせるワザだろう。原爆についての映画でありながら、広島も長崎もワンカットも登場しないというのは、高度な恣意性が働いているとしか思えない。