原爆の罪深さと学者の内面の苦悩とが等量で描かれることの残酷さ
『ヒロシマ、モナムール(公開当時の邦題:二十四時間の情事)』(1959)という、アラン・レネ監督が戦後の広島でロケーションした著名な映画があるけれども、その映画の中で、原爆についての映画に出演するために広島に滞在中の女優(エマニュエル・リヴァ)が「広島で、私はすべてを見たわ」と言うと、彼女とつかのまの恋に落ちている広島在住の男(岡田英次)が「広島で、君は何も見なかった」と応答するあまりにも有名なセリフがある(脚本はマルグリット・デュラス)。
『オッペンハイマー』の恣意的な画面連鎖を眺めながら、筆者はオッペンハイマー本人と空想上の会話を交わした。
オッペンハイマー氏「ロス・アラモスで私はすべてを見た」
筆者「いいえ、ロス・アラモスであなたは何も見ませんでした」
彼がしたことの重大さに比べれば、戦後の冷戦下で彼が赤狩りで追及を受け、スパイの烙印を押されるかどうかなど、私たち日本観客の知ったことではないし、付き合う義務もない。
赤狩りで活動停止に追い込まれたあげくに39歳で命を落としたスター俳優ジョン・ガーフィールドの短い生涯を描いたよと言われたならば、私たちは固唾を飲んでブラックリストに載った彼の悲劇的な行末を見つめることだろう。原爆の罪深さと、赤狩りで失脚する学者の内面の苦悩とが、等量の重要性をもって描かれるという操作に、筆者は言いようのない冷酷さを見ている。