『SHOGUN 将軍』を名作たらしめた真田広之の人望と器
真田はそんな厳しい京都の職人たちに認められた。さらに人望も厚かったからこそ、職人たちも海を越えて助けにきたのだろう。20年も日本を離れて、海外をメインステージにしてきたのにも関わらずだ。ただ時代劇に出演していた俳優というだけでは、こうはいかなかったはずである。
実際に『SHOGUN 将軍』の現場での真田の様子を聞くと、自分の出演シーン以外もできるだけ現場ですべての撮影をチェックし、いつでも質問に答えていた。プロデューサーと役者として2本の軸で駆け回り、肉体的にも過酷な状況でありながら常に穏やかさとユーモアを持ち、日本人と外国人が混じるチームをまとめ上げた。つまり人間としての力と魅力、器のレベルが尋常ではないのだ。
筆者のラジオ番組『時代劇が好きなのだ!』(ラジオフチューズ)に出演してくれた阿部進之介氏によると、ほぼ初対面で「文ちゃん」(戸田文太郎=阿部進之介の役名)と呼ばれて驚いたそうだ。2003年に俳優デビューした阿部にとっては、初の長期海外ロケで、そのうえ馴染みの浅い時代劇の撮影である。きっと殿上人のように仰ぎ見た真田のフレンドリーさは、どれほど救いであっただろうか。
真田は彼らのような若い俳優にも「ヒロ」と気さくに呼ぶことを許した。そして職人たちとともに彼らに徹底的に寄り添い、指導した。
技術面だけではない。真田の人としての大きさが、この作品を世界的成功に導いた。
ちなみに阿部によれば、「英語圏の人たちと英語で話すときは“ヒロ”と呼んでました。我々が日本語で話すときは“真田さん”です。もちろん直接お呼びするときも“真田さん”と呼んでいました。それは日本人としての敬意の表現だからだと思います」とのことだ。