眼差しとジェンダー
たとえば、ローラ・マルヴィと彼女の議論を引き継いだフェミニズム映画批評では、女性を「見られるため」のエロティックな見せ物という受動的な役割に従属させるものとして「男性の眼差し(male gaze)」が批判されてきた。
鳥かごでマジックミラーの前に立つときのミナたちは、マデリンを女性とするのであれば四人のうち三人が女性であり、「見られるため」に身体をディスプレイされる受動的な女性、という古典的な枠組みを完全に踏襲しているように見える。
同様に、規則を破って妖精をその目で見れば、すぐさま殺されてしまうという設定もまた、ミナらに主体的に「見る」力を与えない、保守的なホラー映画と共通する要素だ。最終的にハーフリングとしてではあれ、マデリンという女性キャラクターが怪物=妖精と結びつけられることも、多くのホラー映画を彩ってきた、女性を怪物と同一視するような偏見を想起させる。※
鳥かご内のミナたちにとって、自分たちの側から相手を見る力と権利を奪われた上で、どこから自分たちを見ているかわからないウォッチャーズの視線を感じ続けることは、覗き見る「男性の眼差し」に値踏みされること、自分自身を父権的な眼差しで監視するよう強要されること、要するに、家父長制下の家庭における女性の状況を規定するような経験と、かなりの部分重なり合う。当然ながらイシャナにとっては、プロデューサーで業界の大先輩でもある父が自らの監督ぶりに向ける視線も同様の性質を孕んでいただろう。
また、妖精たちから彼女たちに向けられる眼差しは、ベンサム、フーコー的な一望監視装置の眼差し、すなわち監獄における犯罪者たちを服従させようとする権威としての目を思わせるものでもある。
そもそも、鳥かごという空間の性質は、劇中に登場するルールの性質と厳密に対応している。どこから自分を見ているかわからない視線、例外の許されない規則は、いずれも大きな不自由を強いる。しかし、それと引き換えに、ある種の安全を保証するものでもある。
※ 女性キャラクターに「見る」力を与えず、彼女たちを「見られるため」にディスプレイされる受動的な存在として扱ってきたホラー映画の歴史については、たとえばLinda Williams “When the Woman Looks,” The Dread of Difference, pp. 17-36、を参照。また、穢れと結びつけることで女性を怪物と同一視する発想についてジュリア・クリステヴァのアブジェクション理論を援用しつつ解説した論文としては、Barbara Creed “Horror and the Monstrous-Feminine: An Imaginary Abjection,” Ibid, pp. 37-67.などがある。