「絵の中の染み」としてのミナ
おそらく、ミナ、そしてイシャナが問題化している視線は、フェミニズム映画理論において焦点を当てられてきた眼差しよりもむしろ、精神分析家ジャック・ラカンが論じるところのそれに近いように思われる。たとえば、彼が眼差しについて語る際によく引き合いに出されるのが、イワシの缶についての滑稽な物語である。ここではスラヴォイ・ジジェクによるまとめを参照しよう。
「学生時代、休みになると、彼は漁師に混じって漁に出た。船上の漁師のなかに「プチ・ジャン」とかいう男がいた。その男が、陽光を受けて光っているイワシの缶を指して、ラカンにこう言った。「この缶が見えるかい。本当に見えるかい。でも、その缶にはおまえが見えないんだぜ。」ラカンはこう注釈を加えている。「もしプチ・ジャンが私に言ったこと、つまり缶には私が見えないということに何か意味があったとしたら、それは、ある意味で、それにもかかわらず缶は私を見ていた、ということです」。
なぜ缶は彼を見ていたのか…。それは「私がいわば絵の中の染みの役割を演じていたからです」。大変な苦労をして日々の糧を稼いでいる無教育な漁師たちの間で、ラカンはまったく場違いだった」。(スラヴォイ・ジジェク『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』223)
振り返れば、漁師たちの間で完全に浮いていたラカンのように、そして「絵の中の染み」のように、ミナは「まったく場違い」な存在として生きてきたのではなかったか。架空のダンサーに擬態し、周囲から発せられた言葉を模倣してきた彼女は、規則、法に適応するためにそうしてきたわけではない。
ラカンは、イワシの缶のエピソードを紹介したすぐ後で、擬態において重要なのは適応ではなく、「主体が絵へと挿入されるべき次元が現れる」ことであると述べる。
「擬態は、背後にある「それ自身」とも言うべきものとは異なるなにものかを見せる」のであり、問題なのは「背景と調和すること」ではなく、「まだらな背景の上で自身がまだらになること」であるのだという(『精神分析の四基本概念』131 )。
さらに続けて彼は、「たしかに、模倣するということはある像を再生すること」であるが、本質的にそれは、「主体にとっては、ある機能の中に自らを挿入するということであり、その機能の実践が主体を捕らえる」(同前)とする。
擬態や模倣を繰り返したのち、ラカンにとってのイワシの缶のような何かから「見られている」と感覚するとき、その眼差しによって、主体は絵の中の染みとして誕生する。
フェミニズムに一定の距離を置きつつ主体化とラカン的な眼差しの関連について思考したジョアン・コプチェクは、こうした主体の誕生を、ナルシシズムおよび、映画を通じて問題となってきた規則=法の問題と関連づけて論じてもいる。
人間が自分のイメージの中で愛しているのは、イメージを超えた(「あなたの中にあるあなた以上の」)何かなのである。それゆえにナルシシズムは、主体が自分のイメージを見るときに持つ悪意の源、または主体が自分の表象すべてに向ける攻撃性なのである。よって主体は法に適合するものとしてではなく、法から逸脱するものとして誕生する。主体が自分自身のものとして受け入れるのは、法ではなく、法の欠陥——法が最終的に隠蔽することができない欲望——なのである。法の罪悪という重荷を背負うことで、主体は法を超えることになる。(『わたしの欲望を読みなさい ラカン理論によるフーコー批判』55-56)