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柴咲コウの超越的な眼差し

© 2024 CINEFRANCE STUDIOS - KADOKAWA CORPORATION - TARANTULA
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 とはいえ、旧作版の「異物感」がなくなったかといえば、決してそんなことはない。むしろ高橋洋による脚本を再解釈した新作版では、旧作版の謎が主人公の小夜子の「視線」に集約されている。

 例えば中盤、小夜子がアルベールの目を盗み、監禁した財団メンバーに裏切りを持ちかけるシーンでは、赤い光に沈む小夜子の顔が、監禁されている男の目線とおぼしきバストショットで捉えられる。しかし彼女の視線は、カメラではなく画面の下手側に向けられている。本作には、こういった「寄るべのない視線」が随所に散りばめられているのだ。

 最もわかりやすいのが、日本に暮らす夫とオンラインで会話を交わすシーンだろう。このシーンでは、本来ならばカメラ前にいるはずの小夜子がパソコンの横に佇んでいる。彼女は、夫の呼びかけにも応じず、ただひたすら闇に佇んでいるだけだ。

 映画評論家の三浦哲哉は、サスペンス映画の要素の一つに「見えないもの」を挙げ、その例に、「画面をどこかから監視・操作している、高次の眼差し」を挙げている。

「あるイメージは、見えていないけれども存続する、画面外のもうひとつのイメージとの関係下に置かれる。『見えないもの』をいかにして画面の中へ作用させるか。それが時代を超えてサスペンスの作り手たちを貫く関心ごとだったと言えるだろう」(※)

 本作では、寄る辺ない小夜子の視線が、作中の空間に見えない「空白」を作り出している。そして、それは、黒沢自身が述べているように、小夜子が作中ほぼ唯一の女性であることにも関わっている。いわば彼女は本作の超越的な「外部」であり、黒沢自身がインタビューで述べているように、全ての男性を「コントロールしている、結果彼女がすべて糸を引いている」(※2)存在なのだ。

※ 三浦哲哉『サスペンス映画史』みすず書房、2012年、p.281

※2 黒沢清監督、柴咲コウの目つき絶賛「あらぬ方向に誘導されてしまいそう」/映画『蛇の道』インタビュー

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