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「終わらない復讐」という名の希望

© 2024 CINEFRANCE STUDIOS - KADOKAWA CORPORATION - TARANTULA
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 本作には、小夜子とアルベールに加えもう1人重要なキャラクターが登場する。小夜子の患者である吉村一郎(西島秀俊)だ。

 フランス語が話せない吉村は、コミュニティにも属せず、慣れないフランスでノイローゼ気味になっている。彼女は、そんな吉村に本当の苦しみは終わらないことであると説き、あなたならできる、と発破をかける。

 力なく椅子に座っている彼の虚ろな眼には、蛇のように鋭い小夜子のそれとは違い、すでに何も映っていない。また、吉村の顔から上をぷっつりと切ったフレームも、彼の顔の印象を希薄なものにしている。かくして彼は自らの人生を終わらせてしまうことになる。喉元に刃物を突き立て、命を絶ったのだ。

 終わりの大切さを説く小夜子と、終わりが見えないことを嘆く吉村。しかし、実際の結果は真逆だった。小夜子の方が終わりなき復讐に呑まれていき、吉村の方が終わらせることに成功するのだ。

 ここから分かるのは、吉村は、小夜子のもとに訪れる前にすでに終わっていたということだろう。彼は、すでに終わりの中に身を投じていたからこそ、終わりが見えなかったのだ。一方、先にある終わりをしっかりと見据えている小夜子の目は、終わりを客体化しているからこそ、永遠に終わりに辿り着かない。

 しかし、終わりとは「希望」の別名でもある。そして「希望」とは、「テーブルの下の不発弾」のことでもあるのだ。

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