時間よ止まれ、生命のめまいの中で。コッポラ特有の「現実歪曲空間」とは? 映画『メガロポリス』評価&考察レビュー

text by 荻野洋一

『ゴッドファーザー』、『地獄の黙示録』など数々の傑作を生みだしてきた巨匠・フランシス・フォード・コッポラによる14年ぶりの最新作『メガロポリス』が公開中だ。エーリッヒ・フォン・シュトロハイムやオーソン・ウェルズらを継ぐ、「天才的な放蕩者」としてのコッポラの作家性に着目したレビューをお届けする。(文・荻野洋一)【あらすじ キャスト 解説 考察 評価 レビュー】

——————————

巨匠フランシス・フォード・コッポラの集大成的作品

映画『メガロポリス』
© 2024 CAESAR FILM LLCALL RIGHTS RESERVED

 見るもの、聞こえるもの、何もかもが美しい。フランシス・フォード・コッポラという映画作家がたぐいまれなる審美眼の持ち主であることを、新作『メガロポリス』は雄弁に証拠立てている。ただし、そのことが必ずしも作品の成功を約束するものでないことは、映画作家自身が百も承知しているだろう。メジャースタジオとの契約をさっさとあきらめて、一族経営の自慢のワイナリーを一部処分してまで、1億2000万ドル(約170億円)もの自己資金を調達し、巨大な自主映画をこしらえてしまうのだから、この人の映画愛は尋常ではない。

 『メガロポリス』は今年(2025年)86歳を迎えたコッポラにとって、積年の計画がついに実現した集大成的な作品である。ニューヨークへの郷土愛という点で『ゴッドファーザー』(1972)を、職能へのパラノイアックな情熱という点で『カンバセーション…盗聴…』(1974)を、都市をテーマパークのように囲い込む欲望において『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)を、喪失のトラウマから抜け出せない悪夢という点で『ランブルフィッシュ』(1983)を、未来へのイノベーション精神において『タッカー』(1988)を、老いてなお前衛を貫く点で『コッポラの胡蝶の夢』(2007)を、走馬灯のように喚起しながら、ブンブンと大手を振って、誇大妄想すれすれの大状況が創り出される。

 創り出される、と今書いたが、それは決してきれいごとではない。自身がアメリカ映画史上の極上のサラブレッドに位置づけられるという自負はもはや過剰なものと言ってよく、よく世間では「ルーカス、スピルバーグ、コッポラ」などと三羽烏のように呼びならわしているけれども、コッポラ本人はおそらく自分以外の2人をただの田舎者だとあなどっているにちがいない。イタリア系ニューヨーカーという出自は、コッポラという映画作家にとって最重要な属性である。この属性への拘泥ゆえに若き日に『ゴッドファーザー』を創り出し、老いたいまも、またこうして『メガロポリス』を創り出せたのである。

「コッポラの現実歪曲空間」

映画『メガロポリス』
© 2024 CAESAR FILM LLCALL RIGHTS RESERVED

 ニューヨーカーといっても、じつのところ彼が生まれたのはミシガン州デトロイトであり、生まれて2年後にニューヨークに転居した。そしてニューヨークといっても、マンハッタン区ではなく、クイーンズ区のウッドサイドという、中心部からかなり離れた地区で育った。現役作家の中ではウディ・アレンと並んでニューヨーカーとしてのアイデンティティを強調する存在と言っていいが、そこには粉飾演出が介在する。そしてその粉飾が悪いということはなく、おそらくマンハッタン生まれでなんの屈託もなく育ったニューヨーカーよりもはるかに想像力と創造性が発揮されるのである。それは時に、ある種の現実歪曲の能力として発揮される。

『メガロポリス』の舞台は誰がどう見てもニューヨークだが、なんと街の名前が「ニュー・ローマ」などと見知らぬ名前に差し替えられている。映画の冒頭でナレーションが次のように読まれる。「われわれのアメリカ共和国は古代ローマと変わらない。われわれは過去とその至高の遺産を保ちうるのか? あるいはローマのように少数の人間の飽くなき権力欲の犠牲となるのだろうか?」 …さて、“アメリカ共和国”とは何だ? “古代ローマと変わらない”とな? あたかもイタリア系市民がアングロサクソン系やユダヤ系を出し抜いてアメリカ経済の、ニューヨーク上流社会のヘゲモニーを握っているかのごとく物語が始められる。俯瞰地図のカットが現れるが、それは私たちの知っているニューヨークの地図ではなく、イタリア・ラツィオ州の城壁都市たるローマのそれであった。

 筆者はこれを「コッポラの現実歪曲空間」と呼びたいと思う。これは本作『メガロポリス』において初めてそうなったのではなく、彼の映画は一貫して、大なり小なり現実歪曲空間である。これはバットマンとジョーカーが跋扈するゴッサム・シティと似て非なるもので、コッポラは現実のニューヨークを古代ローマのスペクタクル史劇として撮りたいという極私的な欲望にもとづいて現実を歪曲し、鋳造してみせる。象徴的なシーンは、ニュー・ローマ一番の富豪ハミルトン・クラッスス3世(ジョン・ヴォイト)とニュースキャスターのワオ・プラチナム(オーブリー・プラザ)の結婚式シーンである。マジソン・スクエア・ガーデンを使用して撮影されたこのシーンは、パーティあり、ダンスフロアあり、サーカスあり、献金ゲームあり、派手なできごとが同時多発的に起こっており、これをコッポラと撮影部は即興的に撮りまくり、細かくシュレッドして編集している。

大いなる時代錯誤、大いなるダイナミズム

映画『メガロポリス』
© 2024 CAESAR FILM LLCALL RIGHTS RESERVED

 主人公カップル――カエサル・カティリナ(アダム・ドライバー)とジュリア・キケロ(ナタリー・エマニュエル)は、会場の興奮状態からはやや距離を取るようなポジションで、綱引きのようなパントマイムを使ってたがいを誘惑しあっている。この結婚式の長いシーンはいわばグランドホテル形式であり、現代映画においてこのような大昔のハリウッドの大作を見ているような幻惑をもたらしうるのは、コッポラをおいて誰がいるというのだろう。まるでエーリッヒ・フォン・シュトロハイムやエドマンド・グールディングが生き返ったかのようだ。

 大勢の群衆を自在に撮って画面を充実させうる資質は、ソビエトの巨匠たち――セルゲイ・M・エイゼンシュテインやレオニード・トラウベルクをも想起させ、『メトロポリス』(1927)と一字違いのタイトルを冠しつつ、ディストピア的未来都市を捏造した点でフリッツ・ラングのドイツ時代も想起させる。この大いなる時代錯誤、大いなるダイナミズムよ。

 カエサル・カティリナのお気に入りの場所――自分の研究室が入居する高層ビルの屋上に巨大な時計の文字盤がしつらえられており、黄金色に染まった夕景の光のなかで彼は、ワイヤーで宙吊りになった白い鉄骨に乗っている。なんという美しい色彩設計だろう。コッポラの美的感覚は只者ではない。

 カエサル・カティリナは「Time, stop!(時間よ、止まれ!)」と号令をかける。すると、彼以外の世界のすべてがフリーズして時間が止まってしまう。ニューヨークをニュー・ローマに差し替えてしまう現実歪曲能力に加えて、こんどは時間を自分の意志でピン留めしてしまおうというのだ。カエサル・カティリナは「メガロン」なる奇跡の新素材を発明して、ノーベル賞を受賞したばかりという設定なのだが、この「メガロン」という新素材こそ、「コッポラの現実歪曲空間」を物語内で具現化したモノである。

コッポラが構想する「ライブシネマ」の可能性

映画『メガロポリス』
© 2024 CAESAR FILM LLCALL RIGHTS RESERVED

 都市という現実を歪曲し、時間を歪曲する。しかしながら、時間が止まったというのはまやかしでもある。周辺の運動がフリーズしただけであって、その光景を「してやったり」の表情で眺めるアダム・ドライバーの演技は変わらずに持続しており、映画それじたいのランニングタイムも順調に刻まれている。つまり、実際には時間が本当に止まったわけではなく、フリーズという運動の静止画がただ経過しているだけであることに、誰もが気づくだろう。

『フランシス・フォード・コッポラ、映画を語る』という本が邦訳されている(南波克行訳、フィルムアート社、2018年)。これがまたきわめて奇怪な書で、コッポラの映画論、自作解説が読めると思いきや、そんなことよりも彼がその時点で熱中していたリアルタイム撮影によるライブシネマの可能性のことばかりが言い募られている。複数のスタジオに俳優たちを配置して、同時多発的に芝居させ、これを同時に撮影して、コントロールルームにいる監督がスイッチングでリアルタイム編集して見せながら、ストーリーテリングを進めていくというものらしい。まるでテレビ黎明期の生放送ドラマを現代に甦らせたいという、理不尽きわまりない欲望をこの本では爆発させている。

 したがって、「メガロン」なる奇跡の新素材を発明して未来をオプティミスティックに語るカエサル・カティリナという主人公はまちがいなくコッポラ本人の分身なのであって、彼の才能と苦悩を理解し、アシストするジュリア・キケロは愛妻エレノア・コッポラの分身にほかならない。コッポラが老いてなお夢想するライブシネマ構想は、いかにも壮大な失敗が待ち受けているようにしか思えないが、魅惑に満ちてもいる。

 ライブで芝居させても、完全には事態が運ばないことをあらかじめ想定するコッポラは、事前に撮影しておいたストックのフッテージを再生して、糊代にすることを提案している。やはりライブシネマは純度100パーセントのライブではないのである。先述のマジソン・スクエア・ガーデンでの壮大な結婚式シーンに、彼の構想するライブシネマの一端を見た気がする。

オーソン・ウェルズらの系譜を継ぐ「天才的な放蕩者」

映画『メガロポリス』
© 2024 CAESAR FILM LLCALL RIGHTS RESERVED

 現実の空間が差し替えられ、歪曲され、時間も加工、歪曲される。そしてまた、人の名前、物の名前もコッポラの意のままに切り貼りされ、歪曲される。主人公の名前――カエサル・カティリナを、当時のローマ市民が聞いたらさぞかしびっくりすることだろう。カエサル(100 BC -44 BC)とカティリナ(108BC-62BC)は別人であり、ともに共和政ローマ末期に活躍した政治家であって、このふたりの名前をくっつけてしまうという野蛮さもまた、「コッポラの現実歪曲空間」の一変種である。

 興味深いのは、日本の配給会社が今回、登場人物の名前をほぼ全部ラテン語表記で統一した点である。アダム・ドライバーが演じた主人公カエサル・カティリナ(Cesar Catilina)は映画内ではカエサルではなく「シーザー」と通常の英語発音で呼ばれており、彼と対立するニュー・ローマ市長フランクリン・キケロ(Franklyn Cicero)も映画内ではキケロではなく「シセロ」と呼ばれている。しかし日本側はこの英語発音をあえて反映させず、ラテン語発音に応じた固有名詞表記を採用した。これは面白い試みであり、筆者の推測では、たとえばニュース雑誌の「TIME」が映画内では「TEMPUS」とラテン語表記されていたりする愛嬌あるディテールに、日本語字幕もとことん付き合ってやろうという決定があったのだろう。

 それでいて、カエサルに反感を抱くいとこのクローディオ(シャイア・ラブーフ)が大衆を扇動して暴動を引き起こすシーンでは、プラカードに「MAKE ROME GREAT AGAIN」などと英語表記されているのが微笑ましい。トランプのごときデマゴーグの標語なぞラテン語に変換する必要なしとでも言いたげだ。コッポラという人はとことん愉快な映画作家でもある。

 壮大な失敗作でも、巨匠のゴージャスな集大成でもいいが、とにかくこんな贅沢なものを今どき、ごく日常的なふるまいとして享受できる現実に感謝しなければならない。コッポラはシュトロハイムやオーソン・ウェルズといった天才的な放蕩者の末裔であり、こんな才能はこれから果たして登場しうるのか。今はただ、コッポラが元気でこんな超大作で私たち映画ファンの度肝を抜いてくれるのだから、それをありがたく楽しむ以外に何ができるだろう。失敗作かどうかなんて、小さなことだ。これほどリッチな気分にさせてくれる映画はほかにはない。

 コッポラ映画において、特に今回の『メガロポリス』においてはなおさら、男性はみんな夢想家で、権力志向であり、女性はセクシー志向、結局のところ愛する男性のアシスト役に回り、やがて母になることの幸福を甘受する。いろいろと放蕩をしでかす一方で、結局のところ家父長制的な血縁大事の世界観が温存され、垂直型のファミリズモ(familismo)が謳歌される。これをイタリア系移民的マッチョイズムとして、批判的検証をほどこす必要を、筆者はつくづく抱いている。これについてはまた、次の機会に譲ろう。

【著者プロフィール:荻野洋一】

映画評論家/番組等の構成演出。早稲田大学政経学部卒。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」で評論デビュー。「キネマ旬報」「リアルサウンド」「現代ビジネス」「NOBODY」「boid マガジン」「映画芸術」「ele-king books」などの媒体で映画評を寄稿する。2024年、初の単著『ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ』(リトルモア刊)を上梓。

【関連記事】
【写真】映画『メガロポリス』劇中カット一覧
ソフィア・コッポラが描く男と女の性的闘争…“車”の描き方に込められたメッセージとは? 映画『プリシラ』考察&評価レビュー
史上もっとも偉大な映画シリーズは? 進化し続ける傑作5選

【了】

error: Content is protected !!