喉を潰した笠置シヅ子
さて、実際の服部良一氏があんなにサイコパス風味だったかどうかはともかく、音楽に妥協しない人であったのは本当のようだ。1907年、大阪生まれ。笠置シヅ子より7つ上だ。両親が芸事好きで、町内の祝い事では良一も聞きかじりの浪曲や小唄を披露して、大人たちから喝采を浴びていたという。やはり両親が芸事好き、、家業だった銭湯の脱衣所で歌い脱衣所で歌い大人たちに愛されたシヅ子と、とても似ている。
そして服部は16歳でうなぎ店「いづも屋」が宣伝のため結成した「いづも屋少年音楽隊」に入隊。宣伝のために音楽隊を結成するとは「いづも屋」太っ腹である! その後、大阪フィルハーモニーオーケストラに合格。このフィルハーモニーに常任指揮者として赴任したのが、ドラマで羽鳥善一が熱く語っていた「メッテル先生」、E・メッテルだ。メッテルに見込まれた服部良一は、4年間非常に厳しく指導されるが、一日も休まず、練習のない夜はカフェのバンドに参加し腕を磨いたという。
厳しい指導に耐えた人は、自分が見込んだ弟子にも「自分ができたんだから、できる!」と同じことを求めるもの。笠置シヅ子も彼に、徹底的に独特の発声法を叩きこまれることになる。高い声で歌っていたシヅ子に「ジャズの発声は地声が自然」という持論のもと、高音を殺しながら歌うことをすすめ、シヅ子は喉を潰し、ときに病院にかかることもあったという。そして彼女は見事期待にこたえ、ブギの女王になっていくのだ。
ブルースの女王として登場した、お帽子がエレガントな茨木りつ子のモデル、淡谷のり子にも仰天のエピソードがある。彼女も服部良一の作る哀愁ある楽曲に合った低音を出すため、吸ったこともない煙草を一晩中吸い、喉を枯らしたという。二人とも、歌手魂がすさまじい。