「声色がやや甘い、もっと無機質に」
人間くさいキャラクターを演じる上で必要とされた“信じる力”
―――とても実践的なお話です。『寝ても覚めても』で東出さんは、“麦”と“亮平”という正反対の性格の男を一人二役で演じています。それぞれのキャラクターは濱口監督と一緒に作り上げていったのでしょうか?
「もう1人、山本晃久プロデューサーの存在も大きくて。映画序盤の焼肉屋のシーンでは、麦が朝子に向かって『でしょ?』と声をかけるくだりがあるのですが、『声色がやや甘い、もっと無機質に』と何度も繰り返した末にやっとOK。そうしたらクランクアップ後、そのセリフをアフレコすることになって。山本さんに理由を訊いたら『あまりにも無機質だったから』って。そうだと思ったっていう(笑)。
何が言いたいかというと、この作品では、麦の見せ方と亮平の見せ方が、『でしょ?』っていうほんの一言においてもシンクロしてはいけないわけで。そうした微細な部分の調整も含めて、主に僕、濱口さん、山本プロデューサーの3人で役を作り上げていきました。感覚としては、7割が濱口さん、2割が山本さん、1割が僕という感じですね」
―――素朴な質問ですが、麦と亮平、演じるのが難しかったのはどちらですか?
「麦というキャラクターについて、原作者の柴崎友香さんからは『彼は宇宙人』って言われました。たしかに言っていることもおかしいし、何を考えているかわからない。映画において飛び道具的な存在であって、役作りはそれほど悩みませんでした。どこか黒沢清さん的な存在でもありますよね。それまでに3本の黒沢作品(『クリーピー』『散歩する侵略者』『予兆 散歩する侵略者』)に出演した経験も活きたと思います。
一方の亮平はすごく人間くさいキャラクター。悩んだのは亮平の気持ちをどう作るかでしたね。こちらの方は特に“信じる力”が必要とされました」
―――“信じる力”ですか。
「『寝ても覚めても』に出演する前、演出家の小川絵梨子さんと舞台でご一緒したのですが、物語の舞台がベネチアだったんです。小川さんからは『ここが本当にベネチアのカフェだと思って芝居をしたらダメ。そうじゃないとスケールが小さくなってお客さんには届かない。舞台上と言う設定は忘れない』と言われました。それは本当にそうで、そのためにはお芝居をしているけれど、役になる。役を信じる力が大事になってくる。
『寝ても覚めても』には、亮平と朝子が友人たちとレストランで食事をしていると、麦が突然やってきて、朝子を連れ去っていくシーンがあります。ここで亮平は麦と朝子が去った方向をしばらく呆然と見て、ぱっと席を立つ。一人二役ですので、このシーンでは目の前に相手がいると信じて演じるほかありませんでした」
―――なるほど。役者の“信じる力”は、カメラのレンズを向いて芝居をしなければいけない場合でも必要になってくるのではないでしょうか。
「そうですね。映画『関ヶ原』(2017)でご一緒した原田眞人監督は、カットバックを撮る際、出来る限り相手役の役者に『カメラの後ろに立て』と言っていました。それは素晴らしいことだと思うんです。
もちろん場合によっては、現場の都合でカメラの後ろに役者が入れない場合もあります。そういう時は監督なりスタッフさんに視線の目印だけ作ってもらい、相手役の方にカメラから少し離れたところに立ってもらって掛け合いをする」
―――電話のシーンはいかがでしょうか?
「電話のシーンがある時、僕は撮影が休みで遠方にいても、必ず『声の芝居、付き合いますよ』って言います。それに対して録音部さんから『実際に電話をするのではなく、後から録音した方が技術的にベターだ』と言われた場合はもちろん尊重します。
ただやっぱりお芝居は人と人がすることですし、生声でお互いやり合った方が演技に集中できるのは間違いないことなので」
―――ちなみに東出さんがご自身の出演作以外で、役者の“信じる力”が見事に発揮されていると感じた例はありますか?
「比較的近年の映画だと、『ジョーカー』(2019)のホアキン・フェニックスは凄いと思いました。映画中盤、ホアキン演じる主人公が駅で殺人の罪を犯しますよね。その後、街の
売店に立ち寄ると、どうやら自身の犯行が一部の暴徒から絶大な支持を得ていることがわかる。
視線を感じてふと見ると、ジョーカーの仮面を被った男たちがタクシーの後部座席に座っていて、目が合う。その時、ホアキンは何とも言えない笑みを浮かべるのですが、ここ、
レンズに向かっての芝居なんですよ。
こうした表情を作るためには、カメラで撮られているという意識を一度完全に捨て去る必要があって。一瞬のカットですけど、それこそ信じる力が相当強くないと出来ない芸当だと思いました」