帰らざること、死ぬこと、子どもでいることーー相米慎二『お引越し』『夏の庭 The Friends』論。傑作2本を徹底解説
近年、世界的な評価が高まりつつある相米慎二。撮影所以降を代表する映画作家の1人である相米が、90年代に撮り上げた傑作2本『お引越し』(――1993)、『夏の庭 The Friends』(1994)の――4Kリマスター版が公開中だ。両作の魅力を紐解きながら、相米の作家性を浮き彫りにする。(文・荻野洋一)
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【著者プロフィール:荻野洋一】
映画評論家/番組等の構成演出。早稲田大学政経学部卒。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」で評論デビュー。「キネマ旬報」「リアルサウンド」「現代ビジネス」「NOBODY」「boid マガジン」「映画芸術」などの媒体で映画評を寄稿する。7月末に初の単著『ばらばらとなりし花びらの欠片に捧ぐ』(リトルモア刊)を上梓。この本はなんと600ページ超の大冊となった。
死を見つめ、死と共にあろうとする相米映画の登場人物たち
相米慎二は『東京上空いらっしゃいませ』(1990)のラスト近くで、主演の牧瀬里穂と中井貴一に井上陽水の楽曲「帰れない二人」を奏でさせている。「帰れない」という事態について――文字どおり相米映画の登場人物たちとは、揃いも揃って、帰れない人々の群れである――。そして彼らは一様に、どこに行きつくこともない。ひとたびずらかったら最後、永遠の虜囚として、帰らざる道行きを反復し続けるほかはない存在なのである。
そしてそれは先の短い老人だけの定めではない。いやむしろあまりにも残酷なことに、相米映画にあっては、子どもこそが真に死を見つめ、死と共にあろうとする。そのとき大人たちは、ただ茫然と、ずらかる子どもたちの後ろ姿を見送りつつ、あたりに滞留し、地べたにへたり込む以外のことができない定めにある。
くしくも遺作になってしまった『風花』(2001)は、もし相米のキャリアがこのあとも続いていたならば、ひょっとすると転換点になりうる作品だったのかもしれない。この相米唯一の21世紀作品は、小泉今日子と浅野忠信の行きずりの男女が北海道の街道筋を行きつ戻りつ、去るでもなくへたり込むでもなく、つまり前述の相米的存在に当てはめるなら「帰れない」子どものような存在として揺蕩っていた。
さしたる決意もなく永遠の虜囚として道行きを反復する一派に、大人たちも仲間入りする契機のような作品だったのかもしれない。しかし、相米死して24年という歳月が経とうとしているいま、そのような契機や転換点を語ったところで、詮無い推測の域を出ない。