原作との違いと達観した視点について考察~脚本の魅力~
原作は1973年生まれの女性作家・柴崎友香の同名小説。物語の大枠は同じだが、原作と映画とでは人物が出会うきっかけやシチュエーションが微妙に異なる。
亮平を裏切った朝子が、再び彼のもとに舞い戻るシーンを例にとろう。原作では両者の再会がまったくの偶然であるのに対し、映画版では朝子が自分の意志で亮平の住む関西の地に足を運ぶ。朝子の主体性をしっかり描くことによって、「亮平ともう一度やり直したい」という彼女のセリフは切実さを獲得するのだ。
また、原作のラストは街道が舞台だが、映画では2階の窓から川が見える亮平のアパートとなっている。川に視線を落とすと、亮平は「汚い」、朝子は「キレイ」と正反対の感想を述べる。普段は穏やかに見える川の流れも、雨が降れば激流になり、世界の見え方は決して画一的ではない。見る人によって川の印象が異なるのと同じく、裏切りの罪を犯した朝子に対する印象も、鑑賞者によって分かれるだろう。
濱口竜介と田中幸子が手がけた脚本は、朝子を肯定するのでも断罪するのでもなく、「賛否があって然るべき」という達観したな視点を保っており、どこか清々しい。その点、鑑賞後の印象は『ドライブ・マイ・カー』に通じる部分がある。
朝子の友人の舞台役者・マヤ(山下リオ)が出演する舞台の演目は、アントン・チェーホフ作『三人姉妹』。『ドライブ・マイ・カー』でも、チェーホフ作の戯曲『ワーニャおじさん』が重要な役割を果たしており、舞台劇の導入とチェーホフへの目配せという点でも、両作には共通性を見出すことができる。