台風クラブ 演出の魅力
監督の相米慎二は映画のルールを突き破る、破天荒な長回しで知られる80年代を代表する日本の映画作家。長回しとは、カットをせずに長い間カメラを回し続ける撮影技法のこと。相米作品に特徴的な、いつ果てるともなく持続する映像は、被写体が役者として“化ける”過程の記録でもあり、フィクション作品であると同時に、演じることの、あるいは冒険することのドキュメンタリーでもある。
郊外の中学校を舞台に、生徒たちの無軌道な生をテーマとした本作は、登場人物の誰にも肩入れせず、終始客観的な視点で不可解なアクションを捉え続ける。とはいえ、演出には一貫したモチーフと緻密な狙いが見受けられ、無軌道であるどころか、細部まで配慮が行き届いている。
野球部の少年が「ただいま、おかえり」と呟きながら自宅の玄関を出入りするシーンや、ヒロインの理恵(工藤夕貴)が母親の布団に入って悶えるカットは一見意味不明だが、「親の不在」というファクターがアクションを駆動させており、観る者の胸を打つ。
また、主人公の三上(三上祐一)は「個は種を超越できるだろうか?」といった哲学的な問いに取り憑かれ、それは彼の兄によって「ニワトリが先か卵が先か」と同じ、答えのない問題であると揶揄される。三上は担任教師の梅宮が象徴する自堕落な大人になることを嫌悪し、しまいには窓から身を投げて自死する。
注目したいのは、自死の直前のシーンで、ピンポン玉を口に含んでは吐き出す動きを繰り返していることだ。こちらも一見場当たり的なアクションに見えるが、上で触れた哲学的な問いに深く関係した動きであるのは言うまでもないだろう。
子供たちの無軌道なアクションに規則的なリズムを与える本作の相米演出は、イタリア映画の巨匠・ベルナルド・ベルトルッチを興奮させ、現在に至るまで多くの作り手に影響を及ぼしている。