他者への愛が生み出した「怪物」
是枝と坂元、お互いの長年のリスペクトが結実した本作。内容に関しては、まっさらな状態で劇場で見てもらいたいところだが、ざっと一言でいうと、「現代の『羅生門』」といったところだろう。
『羅生門』は、黒澤明監督による1950年の映画。ある殺人事件が「被害者」「被害者の妻」「加害者の盗賊」の3者3様の視点から描かれ、無意識の思い込みや自己防衛反応とによって人間の認識がいかに左右されるかが描写されている。目撃者3人の意見の食い違いという構成は『怪物』に関しても生かされており、本作では「湊の母親・早織」「湊の担任教師・保利」「湊と依里」の3人の視点から一つの事件が描かれる。
シングルマザーの早織はある日、自宅の近所でビル火災を見て以来、息子の湊の不可解な言動に気づき始める。原因が湊の学校生活にあると悟った早織は、湊から情報を聞き出し、学校に乗り込む。しかし校長をはじめとする教師たちはみな煮え切らない受け答えに終始し、事の本質に迫ろうとしない。早織は次第に怒りをつのらせていく。
「怪物だーれだ?」という子どもたちの声、床に滴り落ちる血、燃え盛る炎、そして、「私が話してるのは人間?」という安藤サクラのセリフ―。なんとも不穏な予告を見た観客の中には、「怪物」を探しに来た人も多いことだろう。しかし、話が進んでいくにつれ、「怪物」が人々の頭が生み出した“想像上の産物”であることが分かってくる。
とはいえ、本作では、『羅生門』とは異なり、他者への「愛」が「怪物」を創り出していることに注意したい。早織は湊を、保利は生徒を、そして校長は学校を、といったように、誰かを愛する行為が認知の歪みを生み、知らず知らずのうちに誰かを追い詰めて「怪物」に仕立て上げてしまう。そして、大人たちを翻弄する嘘の源流には、大人たちが惜しみなく愛を注ぐ子どもたちがいる―。本作には、そんな愛をめぐる不条理がはっきりと描かれている。