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言葉による説明に頼らない視覚的な演出に注目

同じスニーカーを履き、同じ映画やアニメを愛し、本棚の中身までほとんど同じ。本作の主人公である麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、性別を異にする“分身”のような関係だ。リズミカルな映像センスと、言葉による説明に頼らない視覚的な演出を身上とする土井裕泰監督は、麦と絹が仲を深めていく過程を、視線と身振りをシンクロさせる演出によって、説得力豊かに描いている。

すでに破局し、互いに別のパートナーを持つ麦と絹が、歩調を合わせて一組のカップルに駆け寄るシーンで幕を開ける本作は、それ以降も両者の視線と身振りが何度もシンクロする。

終電後の居酒屋でアニメーション作家の押井守と出会すシーンでは、斜め前方の席にいる押井に“視線を向ける”のではなく、尊敬のあまり、“視線を逸らす”動作がシンクロする。何も知らずに押井を見つめる向かいの席の男女が対比的に描かれることで、麦と絹の感性の一致がコントラスト豊かに表現されているのだ。

その後も、一枚のカーテンを協力して広げる動き、駅前のパン屋の棚を見つめるシーン、コミックやパソコンの画面に視線を注ぎ、あふれる涙をティッシュで抑えるシーンなど、2人の視線と動作をシンクロさせる演出は枚挙にいとまがない。

一方、テレパシーで通じ合っているような2人が破局を迎えるまでの過程は、視線と動作の不一致によって、やはりコントラスト豊かに描写される。

社会人として忙しない日々を送る麦は貴重な休みを絹と映画館で過ごすが、スクリーンを真っ直ぐ見つめる絹に対し、麦は反り返った姿勢で虚ろな視線を漂わせている。社会の荒波に揉まれ、ストレスフルな毎日を送るようになった麦は、もはや絹と視線を共有しようとはせず、独りっきりでスマホ画面に視線を落とし、パズルゲームに興じるようになるのだ。

ファミレスで別れ話をするクライマックスでは、「結婚してもう一度関係を立て直そう」という麦の言葉をきっかけに、前向きなムードが一瞬だけ2人を包む。その直後、麦と絹の斜め後方の席に、かつての2人を思わせる若いカップルが現れるのだが、注目すべきは、麦と絹は幸せだった頃を思い出し、ともにカップルから視線を背けてしまうという点だ。

麦と絹の視線を逸らす動作の一致は、押井守が登場する序盤のシーンを反復している。しかし、序盤のシーンでは、2人が動作をシンクロさせることでユニークな感性を共有するのに対し、終盤の別れ話のシーンで共有されるのは、“あの頃はもう二度と戻ってこない”という諦念に他ならない。

麦と絹の視線と動作の不一致を積み重ねることで、破局へと至る感情の流れを丁寧に描き、決定的なシーンでは視線と動作をシンクロさせることで、関係の修復不可能性を力強く提示する。シンプルではあるが、物語を説明的にではなく視覚的に表現する、メリハリの効いた素晴らしい演出である。

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