「彼女が感じて、表出してくれたものを信じる」
主演・杉咲花への絶大な信頼
―――お芝居の構築という点でも、舞台とはまったく異なる意識で撮影に臨まれたのではないかと思います。本作で最も印象的なのは、市子を演じる杉咲花さんのクローズアップです。今回、どのような意識でクローズアップをお使いになりましたか?
「今回、全編通してほとんどが手持ちカットなんですよ。カメラマンには事前に『客観的ポジションからのマスターショットは撮りません』とお伝えしました。この映画は複数の登場人物の証言によって構成されているので、証言者が見たものを撮るというコンセプトのもと、それぞれの脳裏に焼き付いた市子の顔をクローズアップで捉えることを意識しました。
とはいえ、若葉君演じる長谷川と宇野さん演じる刑事が市子の足跡を追っていくパートは、過去の証言ではないので、他のシーンとは違う撮り方をしています。また、終盤の焼きそばを食べるシーンも引きのツーショットでじっくり見せるといった例外的なカメラワークになっています」
―――普通の映画だったら、クローズアップによって登場人物の感情や思考が明らかにされるわけですけど、今回の映画では、カメラが市子に寄れば寄るほど謎が深まっていく。とてもスリリングで面白かったです。
「それは杉咲さんのお芝居の素晴らしさも大いに関係していると思います」
―――杉咲花さんには、シーンごとに市子の感情を逐一言葉にして伝えるような演出をなさったのでしょうか?
「今回、具体的な指示はほとんどしていません。逆に僕が杉咲さんに『このシーンはどういう心情なの?』といったことを聞いて、『こういう気持ちです』『じゃあそれでいってみましょうか』といったやりとりもあったと思います。
もちろん、提示されたお芝居に対し微調整をお願いすることもありましたが、今回、杉咲さんは自身が演じる役をすごく大事にしてくださって、万全の態勢で現場に来てくれたので“彼女が感じて、表出してくれたものを信じる”というのが僕の基本的なスタンスでした」
―――ネタバレになるため、詳しいことは書けませんが、団地の部屋で市子がとある重大な行為をするシーンでは、観ていて心が凍る、凄まじい表情が捉えられていますね。
「あのシーンは撮影前に結構ディスカッションをした記憶があります。ちなみに市子の行為のトリガーになるのが“暑さ”であるというのは原作も同じです。
その辺は、アルベール・カミュの小説『異邦人』の有名な一節(『太陽が眩しかったから』)の僕なりの引用です。市子の精神が限界を迎えているのがあの時期で、あまりにも暑すぎる中で頭がもうろうとして…。戯曲では彼女の内面を表すモノローグが入るんですけど、映画では排除しました」
―――その後、母親からとある言葉をかけられて、思考がストップする様子が生々しかったです。
「腑に落ちないんですよね。母親はその時に童謡の『虹』を歌うのですけど、これは原作にはない要素。市子の心には母親の歌がずっと残っていて、彼女もたまに歌うようになっていったという風にしました」