“持てる者”と“持たざる者”ー脚本の魅力
あらすじからも分かるように、本作の脚本は、マサルとシンジの栄光と挫折の物語を主軸に複数の人物の顛末が丹念に描写されている。以下、とりわけ印象的な物語を4つ列挙する。
①タクシー運転手になったヒロシの物語
②お笑いコンビ南極五十五号の物語
③ボクシングをはじめた不良三人組の物語
④ヤクザの鉄砲玉になったカズオの物語
最も象徴的なのは、①のヒロシの物語だろう。マサルとシンジからいつもカツアゲを食らっていたヒロシは、喫茶店の看板娘サチコに猛アタックし、最終的に結婚までこぎつける。その後、ハカリを売る会社に就職したヒロシだったが、上司のパワハラに耐えきれずタクシー運転手に転職。しかし、転職先もブラックで結局事故を起こしてしまう(作中では明言されないが、その後の描写から恐らく亡くなったことがうかがえる)。
ヒロシには、マサルのようなヤクザとしての才覚もなければ、シンジのようなボクシングの才能もない。力も才能も持たない彼には、ただ日々の暮らしを守るだけで精いっぱいで、本来、結婚という当たり前の幸せすら身の丈に合わない。その証拠に彼は、幸せをつかんだ途端、命を落としてしまう。
持たざる者は、持てる者に絶対に勝つことができない―。この北野のあまりに非情な人生観は、マサルとシンジの物語にも共通するテーマだ。
例えばマサルは、シンジと一緒にボクシングジムに入会したものの、格下だと思っていたシンジにコテンパンにのされてしまう。絶対に勝てない圧倒的な才能を目の前にした時の絶望感が、マサルの胸を突き刺す。
そしてその後、マサルはヤクザの世界に入り頭角を現すが、今度は、自分自身をかわいがってくれた組長が射殺された事件をきっかけに、上層部に楯突いたことで、若頭から制裁を加えられてしまう。また、ボクサーの道を邁進していたシンジも、先輩のボクサーの甘い言葉に誘われて堕落していく。
ここにあるのは、上下関係や既得権益といった、個人では如何ともしがたい社会が、個人に牙をむくという構造だ(ヒロシが最初に就職した会社が、物質同士の重さを比較する「ハカリ」の会社だというのも象徴的だ)。
一方、こういった力関係から唯一自由に見える人々がいる。それは、②のお笑いコンビ南極五十五号だ。
高校時代にコンビを組み、校舎の裏で人知れず研鑽を積んでいた彼ら。演芸場で出た当初は観客も少なかったものの、徐々に人気を博していき、最終的に演芸場を満員にするまでの人気芸人になる。既存の権力構造を飄々といなし、マイク一本でのし上がろうとする彼らの姿は、芸人ビートたけしそのものだと言えるだろう。
さて、勘のいい人ならお気づきかもしれないが、本作の登場人物の多くは、実は北野自身の人生経験が基になっており、現にヒロシのエピソードは、北野が芸人になる前にやっていたタクシー運転手のエピソードが基になっている。
そういう意味で、本作は北野武の自叙伝であり、北野武の人生の無数のifの集積で成り立っているといってもよいかもしれない。