『ゴジラ-1.0』が看過した
日本の繁栄の裏にある無数の犠牲
また、本作は、“妖怪よりも恐ろしい人間たち”を描いた第6期の流れをくんだ作品だけあって、既得権益や搾取といった現代社会への批判が盛り込まれている。
例えば、水木の回想シーンでは、水木たちに玉砕を命じ自らは逃げ伸びようとする上官や、既得権益を得て終戦後も裁かれることなく暮らす軍の上層部の姿が描かれている。
そして終盤、このテーマを最も直接的に表したモチーフとして桜が登場する。ネタバレになるため詳細は省くが、幽霊族の累々たる死体に根を張り大きく幹を広げる桜は、近代日本の繁栄が弱者の犠牲に成り立っていることを実に直截的に表している(この描写は、梶井基次郎の小説『桜の樹の下には』へのオマージュだろう)。
そして、水木と鬼太郎の父は、血液製剤”M”を流通させ「戦争のやり直し」という大義のもと金儲けを企む龍賀一族に戦いを挑む。とどのつまり、本作は「怪奇アニメの皮をかぶった反戦映画」でもあるのだ。
また、本作では「狂骨」という妖怪が登場する。この妖怪は、元々井戸の中にいた死体が妖怪化したものとされているが、本作では龍賀一族に虐げられ死んでいった人間たちの怨念が妖怪化したものとされている。そして、龍賀一族は、なんとこの妖怪を自らの力として利用し、水木たちに対峙する。弱者は怨念すら搾取されるというところに妙なリアリティがある。
さて、こういった描写から筆者が連想するのは、山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』だ。
『鬼太郎誕生』と同時期に公開されたこの作品は、終戦後を舞台としていることや、主人公が“兵隊上がり”であることなど、本作との共通点が多い。しかし、両作品の本質は大きく異なっている。
まず『ゴジラ-1.0』の場合は、特攻隊の生き残りである主人公、敷島が戦争とは無関係なゴジラを相手取って「戦争のやり直し」を行う。つまり本作は「反戦映画の皮をかぶった戦争映画」だ(国家ではなく民間でゴジラに挑んだり、敷島が最終的に生き残ったりといった描写は、本作が戦争映画であることを隠すカモフラージュに過ぎない)。
また、レーティングの関係からか、死体がほとんど描かれないのも本作の特徴だ。めぼしいところでいえばゴジラの犠牲になった兵士の死体が挙げられるだろうが、これですら死体の顔は布で覆い隠されており、筆者には敷島の「やる気スイッチ」を押すための記号としか思えない。加えて、作中では、元技術士官の野田が「犠牲を出さずにゴジラを倒す」ことを高らかに宣言するが、このセリフも犠牲から目を背けるための口実にしか思えないのだ。
一方、『鬼太郎誕生』では、龍賀一族から搾取される幽霊族の死体の顔が実にグロテスクに描かれている。こういった描写には、太平洋戦争に従軍して死線をさまよい、帰国後も『総員玉砕せよ!』などのリアルな戦争漫画を世に送り出してきた水木の魂が確かに感じられる。