メロドラマの更新を目論む野心作。映画『こいびとのみつけかた』レビュー【前編】監督・前田弘二×脚本・高田亮コンビを徹底解剖
『まともじゃないのは君も一緒』の監督・前田弘二と脚本・高田亮のコンビが贈る映画第二弾『こいびとのみつけかた』が公開中だ。今回は、ジャンル映画を強く意識して映画を撮り続けてきた前田弘二×高田亮コンビが、新たな領域に足を踏み入れた本作の深掘りレビューをお届けする。(文・冨塚亮平)
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【著者プロフィール】
アメリカ文学/文化研究。神奈川大学外国語学部助教。ユリイカ、キネマ旬報、図書新聞、新潮、精神看護、ジャーロ、フィルカル、三田評論、「ケリー・ライカートの映画たち漂流のアメリカ」プログラムなどに寄稿。近著に共編著『ドライブ・マイ・カー』論』(慶應大学出版会)、共著『アメリカ文学と大統領 文学史と文化史』(南雲堂)、『ダルデンヌ兄弟 社会をまなざす映画作家』(neoneo編集室)。
前田弘二×高田亮のさらなる挑戦
「これはメロドラマである」。映画『こいびとのみつけかた』の冒頭を飾るこのテロップからは、デビュー以来長年に渡りタッグを組んできた監督の前田弘二、脚本の高田亮をはじめとする製作陣の、ジャンル映画に対する並々ならぬこだわりと覚悟が伝わってくる。
そもそも、こう言い切ることに何の得があるのか。おそらく、主演の倉悠貴や芋生悠を目当てに劇場に駆けつける若い観客のほとんどは、「メロドラマ」という言葉に戸惑いこそすれ、そこから本編への期待感を高めることはないだろう。逆に、古典映画を長く愛好してきた年季の入った映画ファンであれば、果たして二〇二〇年代の日本でどんなメロドラマが撮れるのか、と必要以上に身構えて鑑賞に臨むことになるかもしれない。
一見したところ、これから観る映画のジャンルを確定させようとするこの力強い宣言は、単にハイリスク・ローリターンなものであるようにも思える。しかし、振り返ってみれば前田・高田コンビは、劇場公開デビュー作である『婚前特急』(2011)の時点ですでに、同作を「21世紀版スクリューボール・コメディ」と銘打っていた。かつて隆盛を誇り、その後衰退していったジャンル映画の継承と更新に自覚的であることをあえて示そうとするこの姿勢は、彼らが組んだ複数の映画に共通して見出せるのだ。
とりわけ、前作『まともじゃないのは君も一緒』(2020)までの作品はその多くが、一九三〇年代から四〇年代にかけて、いわゆる黄金期にハリウッドで量産されたスクリューボール・コメディと呼ばれたジャンル映画を強く意識したものだった。※1
同作公開を機にプロデューサーの根岸洋之を交えて行った「まともじゃない」分量の鼎談に目を通せば、彼らがいかに「まともじゃない」本数の作品群を研究・参照した上で、すでに成り立たなくなったようにも見えるかつてのジャンル映画を再興する方法を多角的に探ってきたのかが、明快に伝わってくる。 ※2
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※1 ジャンルの簡潔な定義としては、たとえば以下を参照。「荒唐無稽にして眩惑的な球筋(遊動)によって、出逢ったばかりのふたりの男女は紆余曲折(曲がりくねった、こみいった交流的球道)を経ながら、最終的に幸福な共感性にいたる。それは社会の既得権であれ自己の創案性であれ、自分のもくろみに耽溺している男に、自由闊達なヒロインが翻弄的な恋愛投球もする女性中心主義的物語映画である」。加藤幹郎『映画ジャンル論 ハリウッド映画史の多様なる芸術主義』文遊社、2016年、303頁。
※2 前田弘二、高田亮、根岸洋之「スクリューボール・コメディの成分〜『まともじゃないのは君も一緒』スペシャル鼎談(前編)」Cienefil、2021年3月18日。