過去作にも見え隠れしていたメロドラマ的要素
時代の違いや、すでに古びてしまったジャンルの約束事にはこだわらず、「ただ美味しいところをちゃんと撮ろう」(前田)とする、「リミックスに近い」(根岸)姿勢によって、彼らは映画ジャンルの区分に興味を示さない多くの若い観客の支持を継続的に掴んできた。そうした工夫のなかで本作との関連でまず目につくのは、実のところ、スクリューボール・コメディを強く意識した過去作にも、すでにメロドラマ的な要素がところどころに現れていたという事実だ。※3
たとえば高田は、『ミニー&モスコヴィッツ』(1971/ジョン・カサヴェテス監督)からの影響にも触れつつ、脚本修正の過程で『婚前特急』のチエ(吉高由里子)が一人で歩くシークエンスに、スクリューボール・コメディ的ではない、メロドラマ的な心理描写を導入した経緯を語っている。
その後の前田との長い共闘を経て、彼の「資質的にはドタバタよりもそういうメロウな所のある混合型のほうが良いんだという風になってきた」との印象を語る高田は、『まともじゃないのは君も一緒』においても、自らの感情を押し殺して婚約者の実業家・宮本(小泉孝太郎)との「まとも」で普通な生活を守ろうとする美奈子(泉里香)の選択を通じて、メリハリの効いた形で作中にメロドラマ的な要素を取り入れていた。
同様に、各要素の占める割合こそ異なるものの、メロドラマを謳った本作もまた、「まとも」であることを強いる世の中に馴染めない二人の変人カップルが中心となって物語が進んでいく点や、トワ(倉悠貴)が常に持ち歩いているニュース記事を早口で読み上げるいくつかのシーンなどに、スクリューボール・コメディの要素を色濃く残している。その意味では『こいびとのみつけかた』もまた、力点の置き方が過去作と逆転しているだけで、間違いなく高田の言う「混合型」の一本である。
ともすれば、この「混合」ぶりゆえに、本作や前田・高田コンビの過去作をそれぞれ、メロドラマやスクリューボール・コメディというジャンル内に位置づけることは出来ないと考える見方もあるかもしれない。だが、隣接するジャンル間の境界を必要以上に強調するそのような態度こそが、かつて大衆的な人気を誇ったある種のジャンル映画が衰退する原因の一つとなってきたこともまた確かではないか。
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※3 メロドラマの統一的な定義は存在しないが、標準的な解釈としては、たとえば以下を参照。「メロドラマとは、善悪の葛藤のような明確な二項対立を中心に物語が展開し、主人公は犠牲者となってたくさんの災難と苦悩を経験するが、最終的には救われる。
この単純な道徳性を盛り上げる、大げさな身振りや誇張されたセットなど、しばしば象徴性と隠喩に満ちたミザンセーヌを表現上の特徴とする。観客はこの波乱に満ちた物語を見守る中で、主人公に同情したり共感したり、哀れみを感じたり祝福したりしながら、何度となく涙を誘われる」。河野真理江『日本の<メロドラマ>映画 撮影所時代のジャンルと作品』森話社、2021年、13頁。
なお、前田・高田コンビの映画は、同書で主に分析される日本で特殊な形で発展したローカル・ジャンルとしての<メロドラマ>よりは、ハリウッド・ファミリー・メロドラマの古典作品により強い影響を受けているように見える。