荒唐無稽な夢物語ではない幸せな結末
たとえば、飲み会を抜け出した二人が手を取り合って走る場面や、よく晴れた街中をトワが一人楽しそうに歩くシーンでは、二人の断絶が強調されるシークエンスでのアクションとは対照的に、いずれもカメラが画面左から右への人物の移動に寄り添う形をとっている。つまり、メロドラマ的な要素には画面右から左へ、コメディ的な要素には左から右への移動がそれぞれ重ね合わされているように見えるのだ。
このアクションを通じた描き分けは、園子の家を飛び出したトワが彼女の寝泊まりしていた部屋へと戻り、彼女が破壊した彫刻を修復しはじめることで再び転調する物語とも響き合う。アルバイトを再開した園子は、再び地面に木の葉のメッセージらしきものを発見すると、一度は無視するも、再び振り返り葉の流れを追って走り出す。
さまざまな角度から捉えられた彼女の走りが、最後に左から右へと走る彼女の表情に焦点を当てたものへと収斂していくとき、すでにいくつかの横移動を目にしてきた観客たちは、一切の説明抜きに一足早く二人の再会を確信することとなる。
果たして再会した二人は抱き合うことにはなるのだが、そのままキスへと至り、映画が定型的なハッピーエンドを迎えることはない。夫がいたことを謝罪し、もう会えないと告げる園子に対して、トワは「たまに会って、話したりできればそれだけでいい」と語り、さらに「結婚とか恋人とかどうでもいい、ただ園子に会いたいだけだし、話したいだけなんだよ、ダメかな?」と問いかける。
たしかに、そもそも二人は恋人として交際していたわけでも、また肉体関係を結んでいたわけでもなかった。二人が育む親密さに名前をつけることもまた、特定の関係のみを、「まとも」なものとして枠の中に押しこめ、社会の内部で承認する手続きに過ぎないのだとすれば、われわれはトワの「失恋」を悲しむ必要はない。
そして、夫とともに園子がトワと「会って、話す」機会を、荒唐無稽な夢物語としてではなく、ふたりの関係性がたどり着いた、ある種の幸せな結末として眺めることもできるはずなのだ。