人間同士の「心の闘い」―脚本の魅力
あらすじからも分かるように、複数の証言からなる本作の物語構造は、人間のエゴをあぶり出すためのギミックとして用いられている。具体的に、多襄丸・真砂・金沢(亡霊)の3者の証言と、傍らで観ていた杣売りの証言を振り返ってみよう。
●多襄丸の証言
山で観た真砂の姿に欲情した彼は、金沢を捕縛し、真砂を手籠めにしようとする。そして、決闘して生き残った方と添い遂げるという真砂の言葉通り、金沢を殺害する。ところがその後真砂が逃げたことから、金沢の弓や太刀を持って逃げ出す。
●真砂の証言
金沢が木に縛りつけられた後、夫である金沢の目の前で多襄丸に強姦される。その後、解放されるが、金沢は彼女を軽蔑の目で見つめつづける。辱めをみられた彼女は、心中を図ろうと金沢の胸に刃を立てるが、自分は死に切ることができなかった。
●金沢の証言
真砂は多襄丸と一緒になるために、多襄丸に金沢を殺すよう命じた。流石に驚いた多襄丸は、詰め寄る真砂を蹴倒し、金沢に同情を示して縄をほどく。その後、真砂と多襄丸が去って1人残された金沢は、短刀を自身の胸に突き立てる。
●杣売りの証言
多襄丸は真砂を強姦した後、真砂と夫婦になることを懇願したが、彼女は断り金沢の縄をほどく。しかし、金沢は、辱めを受けた彼女に自害を迫る。真砂は、自分の命を守るために多襄丸と金沢を戦わせる。戦い慣れていない多襄丸は、金沢と互いへっぴり腰で戦った挙句、なんとか勝利を収める。その後、真砂は、事の成り行きに動転し逃げる。
多襄丸・真砂・金沢の証言を比較すると、それぞれ多襄丸は自身を侍よりも強い猛者として、真砂は自身を辱めを受けて自害しようとする気高い武士の妻として、そして金沢は盗賊から妻を守る気高い武士として考えていることが分かる。
しかし、傍観者である杣売りの意見を参照すると、多襄丸はただの臆病者のチンピラで、真砂は生きるために夫を裏切る恥知らずであり、金沢も妻一人守れない臆病な武士であることが分かる。つまり3人は、自身の理想を過去の自分に重ね合わせ、話を盛っているのだ。
しかし、傍観者である杣売りの話も、本当かどうかは判定できない。なぜなら、下人が指摘するように、小刀を盗んだのが杣売り本人だからだ。また、杣売りの罪を指摘する下人もまた、羅生門で赤ん坊から着物をはぎ取っている。つまり、本作に隠された真実は、登場人物の証言を足し合わせても一向に見えてこないのだ。
「人間の心に潜むエゴイズムは醜悪無残である。しかもなお、人間は、人間の善意を信じないでは生きていくことが出来ない。その心の闘いを、この映画は描かんとするものである」(『羅生門』企画シナリオ冒頭の文章)
目には見えない「心の闘い」―。この状況は、まさにXをはじめとする今日のSNS環境を彷彿とさせるものだ。現に、SNS上で発信される情報はすべてユーザーの証言に過ぎず、ユーザー自身の(しばしば政治的な)バイアスがかかっている。
しかし、こういった「心の闘い」は、決してネットの誕生と軌を一にして誕生したものではない。現に、陰謀論や魔女狩りといった現象は、ネットが誕生するはるか以前から世界各国にみられるもので、むしろネットにより全面的に可視化されたというのが正しいだろう。
つまり、本作は、映画というメディアを用いることで、人間の本質的な問題に迫った作品なのだ。そういう意味では、SNS全盛の今の時代こそ観るにふさわしい映画といえるかもしれない。