コミュニケーションの齟齬と複数の世界の交流
前作『わたしたちの家』から一歩踏み込んだ領域へ
にこやかさを取り戻したその後の会話から、知人は知珠が勤めていた会社の元同僚であったことがわかり、二人の間に漂っていた微妙な空気にも一応の説明がつけられる。辞めた知珠ととどまった知人は、同じ職場を指差しているつもりでも、別の場所について語っているかのようだ。
職場をめぐる二人の認識や立場は、茶色とピンクの和菓子のように決して完全には一致しない。
目の前にあるものを指し示す、そんなほとんど言語以前といってよいコミュニケーションにさえ、齟齬の可能性は常につきまとう。
その事実は一方で不安や恐怖を喚起するが、同時にとても可笑しなことでもある。たとえば同様の感覚は、二人目の主人公であるガス検針員の早苗(大場みなみ)が、仕事中にたまたま出会った行方不明の老人高田さん(奥野匡)を自宅へ連れ帰ろうとするシークエンスにも現れているだろう。
高田さんは、彼の自宅とは何の関係もないはずの空き家に早苗を案内する。だが、後日再びその家を訪ねた早苗は、ガス針を含む何者かの生活の痕跡を目撃する。ここでも、早苗と高田さんは、別々の家を「高田さんの自宅」として指差しているように思える。
本作で清原が、『わたしたちの家』(2017)で追求した同じ空間、特に家を舞台として複数の世界や時間を並立させる演出を、町にまで範囲を拡大して追求したのは明らかだ。
しかし、今作は複数の並行する世界や人物がどう相互に交流し関わり合うのかという点において、明確に前作から一歩踏み込んだ領域に達している。