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ダンスシーンにみる小津安二郎へのオマージュ

© 2022 PFFパートナーズ(ぴあ、ホリプロ、日活)/一般社団法人PFF
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 先の和菓子屋の例に戻れば、指の先にある和菓子が茶色のものなのか、それともピンクのものなのかは実は重要ではない。

 ユーモラスで不気味でもあるすれ違いの連続が、二つの菓子の間に最初から存在していた白い菓子の存在に改めて目を向けさせること、そしてそのことに気づいたとき、即座に第三の選択肢を選び取ろうとすること。郡司ぺギオ幸夫であれば「やってくる」ものをすぐ素直に受け入れるような受動性と呼ぶであろう感覚にこそ、この映画の希望は託されている。

 あえて断言してしまえば、『すべての夜を思いだす』の真価は、「あ、でもこの白いのにするわ」という何気ない一言のなかに凝縮されているのだ。

 この台詞の素晴らしさは、決して対話の相手と単純に同調するわけではないリズムや抑揚で声を繰りだす、役者兵藤公美の身体の構えと不可分に結びついている。

 彼女の特徴的な発声のあり方は、たとえば子どもたちが困っているように見えたとなれば、実際の反応には構わず迷わず木登りを始めてしまう姿や、さらには公園で踊る三人目の主人公・夏(見上愛)を画面奥に発見すれば、離れたまま思わず彼女に触発されて踊り出してしまう、奇妙でチャーミングで感動的なダンスの動きとも呼応しているように思える。

 間違いなく多くの観客の記憶に残るはずの、涙なしには見られないこのダンス場面では、なんといっても飯岡幸子の撮影が見事だ。

 まず、画面奥に団地の建物の全景を収めつつ踊る夏を小さく捉えた俯瞰気味のロングショットに、手前からゆっくりと知珠がフレームインしてくる。夏の存在に気づいた知珠は立ち止まり、やがて少しずつ独自にリズムをとりはじめる。

 カメラは切り返し、夏の動きをトレースした、いわゆる上手さとは無縁の知珠の踊りを正面からしばらく単独で捉えた後、大きく引いて今度は画面手前左の夏にピントを合わせ、奥の右側に知珠を小さく捉える。

 手前で踊る焦点の合った夏の動きを、画面奥の少しぼやけた知珠は、やや遅れて不器用に真似ていく。孤独と失業、友人の死というそれぞれに異なる喪失を抱えた二人は、完全にシンクロするのではなく、少しずつズレながら、同じ音楽に合わせて身体を動かす。

 このショットがとりわけ心揺さぶるものとなっているのは、二人の位置関係が明らかに小津安二郎『父ありき』(1942)の名高い渓流釣り場面へのオマージュとなっているからだ。

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