シンクロを経ずに生み出されるハーモニー
飯岡幸子による特異なカメラワークが捉えるもの
振り返れば、『父ありき』の主人公である笠智衆演じる中学教師周平もまた、妻と生徒の死という巨大な喪失を抱えることで、息子と離れて暮らすことを余儀なくされていた。二度現れる彼が息子と釣りに行くシーンでは、現実ではすれ違ってしまった父と息子の時間が、釣竿の即物的な動きを通じて、わずかな間だけ同期する。その運動が単純でささやかなものであるからこそ、かえって観客の情動は強くかき立てられることとなる。
本作でも二度同様の構図で映し出されるダンスは、ズレることを余儀なくされた男性家族のシンクロにこそ眼目があった『父ありき』の問題意識を引き継ぎつつも、それを一部反転させ、異なる方向に開こうとしているだろう。
まず一度目の場面では、直接面と向かっては一言も会話を交わすことのない他人同士である二人の女性が、互いに離れたまま、完全には同期することのない踊りによって、かつて『わたしたちの家』公開時に寄せた清原自身のエッセイの言葉を借りれば、「独立しているにもかかわらず、互いに影響しあっている」「フーガ」を思わせるハーモニーを生み出す。※1
これに似たハーモニーは、夏が友人の文(内田紅甘)とともに、一年前に亡くなった文の彼との記憶を思い出そうとする際にも生起する。今度は夏が、画面右奥で踊るヒップホップダンサーたちの動きに触発され、身体を動かし始める。
ここではまず、五人のダンサーたちの動きもまた、それぞれ必ずしも同期したものにはなっていない(良い意味で特に他のメンバーから浮いた動きを見せているのは、おそらくAokidではないかと思われる※2)。単なる模倣とも異なる夏の踊りは、遅れて合流した友人へと伝染し、最終的に七人が画面上でそれぞれに同期することのないまま動き続けることとなる。
同期、シンクロを経ずに生み出されるハーモニーは、これまでのキャリアで最も印象的な達成とも思える、飯岡による本作の特異なカメラワークとも密接に関わるものだ。
そもそも、談笑するジョンのサンのメンバーたちを捉えたはずの序盤の公園場面からして、なぜかカメラは終始ゆるやかに発話者とは無関係に動き続けていた。その動きはメンバーたちよりもむしろ、フォーカスが合わないまま彼らの背後に映りこんでいる通行人たちの自由な動きの方と奇妙に響き合ってはいなかったか。
※1 「だれかの幽霊」「新潮」2018年2月号。http://www.faderbyheadz.com/ourhouse.html
※2 郡司ペギオ幸夫の著作『やってくる』(2020)に触発された公演、山崎広太「ダサカッコワルイ・ダンス」に出演したAokidについては、以前短評を記したことがある。「令和三年のドッジボール」Body Arts Laboratory Report、2022年。https://bodyartslabo.com/report/tomizuka.html