春画と対峙したなかでたどり着いた独自の発見
もっとも、2015年に東京・永青文庫から京都へと巡回した大規模な春画展が、私を含む性別・年齢を問わない多くの来場者に恵まれ、下世話なものにとどまらない春画への広範な関心を広く世間へと知らしめ、本作製作の直接のきっかけとなったように、喜多川歌麿や葛飾北斎が手がけた春画が極めて高い芸術的価値を持つことそれ自体は、現在ではすでに広く知られている。
対して、本作における一郎や弓子による春画をめぐる語りで興味深いのは、それらの言葉が、アカデミックな春画研究の成果に頼らずに、監督と脚本を務めた塩田明彦が、自らの眼でそれぞれの絵と向き合うなかで紡がれたものである点だ。
大学に属さない研究者という劇中での一郎の位置に自らを重ね合わせるように、塩田はさまざまな春画と対峙したなかでたどり着いた独自の発見を脚本へと書き込んだ。
野暮を承知で指摘しておけば、その態度と劇中で春画の細部をめぐって繰り出される華麗な分析はどこか、塩田自身がかつて師事した春画先生ならぬ映画先生、蓮實重彦の存在を想起させもする。「なにが見えますか?」という問いは、「映画とは画面に映ったものがすべて」との教えを伝え続けた蓮實が、自らの授業で映画を見せた後で、しばしば塩田を含む学生たちに投げかけた言葉でもあったのだ。
この最初の「授業」をきっかけとして、ある日勤務先のカフェで一郎が見つめる春画の魅力に電撃的に魅せられてしまった弓子と彼の、現在の大学では決して許容されることのない、おおらか極まりない師弟関係が幕を開けることとなる。その後展開される、官能的かつコミカルな物語の詳細については、ここでは立ち入らない。
性器を描いた箇所をあえて隠すことで春画に向き合おうとした一郎=塩田の顰みに倣って、代わってこの短評では、登場人物たちのエロティックな交流ではなく、映画の画面内に「見える」ある細部に注目しよう。