「不気味なもの」としての隅田川
ある夜、一郎は弓子を連れて出かけた怪しげな集い、「春画とワインの会」の会場に展示された一枚の絵の前で足を止める。弓子は、その春画の画面奥に描かれた隅田川の不気味さを、春画黄金期の終わりを予感させるものとして強調し、一郎はその解釈を称賛する。
この些細な場面は、振り切った演技で映画後半を牽引する、安達祐実演じる藤村一葉が映画の終盤で引く、瀧廉太郎「花」の歌詞に登場する隅田川と奇妙に響き合う。
1900年に西洋音楽の影響下で作曲された「花」、西洋の価値観に従って江戸文化の春画を抑圧しようとした当時の明治政府の圧力がどこか反映されたような会場内の春画はいずれも、「不気味なもの」としての隅田川を通じて、日本文化を抑圧し大きな影響力を行使する西洋の存在を示唆している。
振り返ってみれば、15年に日本ではじめて開催された春画展による再評価もまた、ジャニー喜多川の告発が英BBCによって大々的に行われたことでようやく国内のマスコミが性加害の実態を報道しはじめたのと同様に、二年前の2013年に大英博物館で大規模な春画展が開催されたことに端を発したものであった。
この見立ては実のところ、もう一つの隅田川についても当てはまる。隅田川が登場する楽曲・春画とほぼ同時期に誕生した舶来の文化「映画」に属する本作それ自体もまた、隅田川の風景と無縁ではない。
令和の無責任男と呼びたくなる適当ぶりが実に可笑しい、一郎の助手で編集者の辻村(柄本佑)は、酒に酔った弓子とちゃっかり一夜を共にした翌朝、彼女と二人で隅田川沿いを歩く。
二人の後腐れのない別れを明るく描いた、実に春画的といえる爽やかなシーンの背後にも、隅田川は不気味に蠢いている。また、映画の最後には再び辻村が同じロケーションで通話する場面が現れるが、画面手前に辻村を捉えた日中のこのショットでも、「春画とワインの会」会場内の春画と同様、やはり画面奥には隅田川が流れている。