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才能があることと、才能を活かせるか、才能を活かしたいかは別モノ

(c)2024「トラペジウム」製作委員会
(c)2024「トラペジウム」製作委員会

そもそも、ゆうは本当にアイドルに向いていなかったのだろうか?

確かにゆうは、東西南北を結成する前にオーディションに全て落ちている。また、劇中での本人の自己評価として「性格も諦めも悪い」というセリフがある。とても泥臭いし、キラキラ正統派なアイドルではないだろう。メタ的なことを言えば、登場人物の中で一番視聴者からのヘイトを集めやすいキャラクター設定でもある。

しかし、その代わりゆうには「オーディションに落ちたことは言えないプライドの高さ」「そこから知略を駆使して別ルートで芸能界へ駆け上がる賢さ」「その知略を実行できるだけの行動力」「外野の反対意見を気にしない意志の強さ」がある。適度に図太く、しぶといのだ。

それらは「飛びぬけて可愛い容姿」「高い歌唱力」「バラエティ受けする強烈なキャラクター」など、目に見えて分かりやすい華やかなアイドルの才能ではない。だが、実は同じくらいアイドルとして重要な才能だ。表立って言われないだけで、ステージを降りればアンチから自分の心を守る強いメンタルが必要だし、日々のSNSやブログ更新は継続力が求められ、恋愛禁止など普通の女の子を諦めなければならない局面もあるだろう。

その意味では、確かにゆうはアイドルの才能があった。キラキラした舞台の裏では泥臭さが求められることを誰よりも理解し、キラキラした舞台で輝けるなら泥臭さは厭わないという覚悟があった。

冒頭で、ゆうは表舞台ではなく裏方向きと述べたが、それは裏方向きの人間は表舞台で活躍できないという意味ではない。物事には必ず裏表があり、一見すると表舞台の職業にも裏方としての側面があるし、逆もまた然りだ。つまり、向き不向きは短絡的に判断できるものではなく、自分たちの意志と活用方法次第で変えることができるという意味なのである。

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