アラビア語で「孤独なもの」を意味するアルファルド
藤沢さんと横に並ぶことで少しずつ彼女と助け合ってきた山添くんは、次第に憲彦や和夫とも横並びの関係を形成していく。年明けの公園で憲彦と、終業後のオフィスで和夫と横並びで語り合う山添くんの声には、もはや序盤で顕著だった警戒心や緊張は認められない。近親者を亡くしたわけではない山添くんには、社長の苦しみを完全に理解し、共感することはできない。しかし、仏壇に酒を供え、ともに隣り合って社長の弟(斉藤陽一郎)が映る写真に向かって手を合わせることはできる。
このように、映画の後半ではサイド・バイ・サイドの関係性は山添くんと藤沢さんのペア以外にも次第に拡大していくが、カメラは同時に、それらの関係性が決して無条件に永遠に続くものではないという厳しい事実を周到に示しもする。
たとえば、社長が仏壇に飾っている弟と並んだ記念写真は、過去のいくつかの三宅作品と同様に、むしろ被写体の不在を強く想起させる。また、山添くんが社長と横並びの関係を形成する直前のシーンでは、会社帰りの山添くんと藤沢さんが、はじめて共に縦並びで歩いたのと同じ道を、今度は夜に横並びで歩く。二人は、再びトンネルへとやってくる。今度こそ二人で中に入るのかと思ったところで、忘れ物を思い出した山添くんが会社に帰ることを告げる。今度は藤沢さんが、一人でトンネルの中へと入っていき、二人は別れる。
振り返れば彼女は、リハビリ施設に通いながら車椅子で暮らしていかなければならなくなった母の生活を支援するため、転職して地元に帰ることを決意していたのだった。トンネルは再び二人の違いを視覚的に強調する。たしかに、パニック障害がPMSではなかったように、山添くんはヤングケアラーではない。
しかし二人は、お互いの苦しさが同じリズム、サイクルを持つものではないこと、そして、それでも時には隣に寄り添うことができることを、イベントの準備と天体観測を通じてすでに十分に学んできたのではないか。転職を告げる藤沢さんに対する山添くんの素っ気ない反応が感動的なのは、それぞれに固有の苦しさを抱えた二人が育んできた、一定の距離を保った信頼関係がはっきりと伝わってくるからだ。
そもそも隣り合う二人は、正面から向き合う二人とは異なり、互いに相手のリズムへと可能な限り同調し、共感しようとしてきたわけではなかった。それぞれに異なるトンネル、暗闇の中にいる私たちは、あくまでも各々一人きりで歩き続けるしかない。けれども、イベントの準備を進めるなかで二人が知ったように、道に迷った人々は、いくつかの星の助けを借りることができる。
アラビア語で「孤独なもの」を意味するアルファルドという名の星は、周囲に明るい星がないからこそ、かえって他の誰かにとっての道標として機能する。かつて「孤独なもの」が放った「過去の光」を、時空を隔てて見つめることが、やがて別の誰かが「夜明け」を迎える助けとなる。二人は、三十年前に同じ移動式プラネタリウムのイベントで司会を担当した、今は亡き社長の弟が残したカセットテープを何度も「プレイバック」するなかで、そのことを学んでいく。