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ファントム・スレッド 脚本の魅力

トマス・ピンチョンの長編小説を原作にした前作『インヒアレント・ヴァイス』(2014)からおよそ4年ぶりに制作された本作は、『ザ・マスター』(2012)以来のオリジナル作品であり、初めて故郷の地を離れて撮影した映画である。病気療養中に妻の介抱を受けた経験から着想を得たというシナリオは、一見シンプルである。

裕福な男が階級を異にする貧しい女性を見初め、立派な服をあてがい豊かな経験を与えることで、一人前の存在へと成長させていくーーー。こうした筋立ての映画は『マイ・フェア・レディ』(1964)や『プリティ・ウーマン』(1990)を筆頭に、数多く制作されてきた。これらは名作として愛される一方、男性が女性を人形のように扱う「ピグマリオン・コンプレックス(人形偏愛症)」に根ざした作品であるとして批判の的にもなっている。

『マイ・フェア・レディ』(1964)は、ピグマリオン・コンプレックスをモチーフにした代表的な作品である
マイフェアレディ1964はピグマリオンコンプレックスをモチーフにした代表的な作品であるGetty Images

本作の主人公である天才デザイナー・レイノルズは、ドレス作りに情熱を注ぐあまり、姉以外の女性がマネキンにしか見えなくなるという側面を持っている。その点で本作も「ピグマリオン・コンプレックス」をモチーフにした作品であると、ひとまずは言えるだろう。また、朝食の席では些細な物音を立てることも許さず、集中力を乱されるたびに人格を否定するような発言を繰り返すレイノルズは、見ようによってはハラスメントの権化である。

しかし、本作の白眉はレイノルズによってアルマが“調教”されていく過程にではなく、アルマの反抗によってレイノルズの価値観に変化が生じ、両者の力関係がダイナミックに移り変わっていく点にある。紅茶に毒を忍ばせ、衰弱しきって従順となった夫を介抱するアルマはまるで人形を愛でているようであり、「ピグマリオン・コンプレックス」は奇妙な形で反転するのだ。

さらに終盤に至ると、レイノルズは“あえて”毒キノコ入りのオムライスを口に運ぶという挙動をみせる。果たしてそれは、レイノルズの幼児退行願望によるものなのか。妻に権力を明け渡し、彼女の自尊心を“満たしてやる”ことによって心理的に優位に立とうとしているのか。それとも・・・。

前述したとおり、本作の脚本は登場人物も少なく、一見シンプルではあるが、男女の関係がまるで生き物のように描かれており、何度観ても新鮮で、劇薬のような刺激に満ちあふれている。

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