“挫折に失敗する”主人公を描いた皮肉なラストを考察
カンヌ国際映画祭で最高賞となるパルムドールを受賞するなど、世界中の批評家から絶賛を集め、後世にわたって熱狂的なファンを持つ本作。主人公の病んだ内面を活写した、ポール・シュレイダーによるオリジナルシナリオの独創性も注目を集め、ゴールデングローブ賞脚本賞にノミネートを果たすなど、高い評価を得た。
自分では善い行いをしたつもりでも、他人から見ればはた迷惑な行為でしかない。そうした主観と客観のズレは、些細なレベルでは問題にならないが、許しがたい蛮行が行われる場合は、行為者の正気が疑われる。
本作の独創性の一つは、上で述べたような主観と客観のズレを丁寧に描くことで主人公の狂気を表現すると同時に、本来であれば許しがたいはずの蛮行が期せずして社会から受け入れられ、ヒーローとして祭り上げられてしまう、皮肉な展開を描いている点にある。
主観と客観のズレは、個人と社会の対立とも言い換えられるだろう。主人公のトラヴィスは、演出の項目で述べたように、鏡と窓を通して社会と接点をもち、誇大妄想をつのらせていく。クライマックスを形成する、少女を食いものにする反社会勢力との抗争は、トラヴィスの妄想が激しさを増し、社会との対立がピークに達したときに生じる。
本作では極めて不条理なことに、主人公と社会の対立がピークを迎えた瞬間に、ハッピーエンドを迎える。トラヴィスは、誇大妄想に取りつかれた大量殺人鬼ではなく、命をかけて不幸な少女を助けたヒーローとなるのだ。
しかし、この偶然の勝利は、果たしてトラヴィスに幸福をもたらすのか。人は社会との対決に敗れ、挫折を経験することで成長するものだ。しかしトラヴィスは、いわば“挫折に失敗する”ことによって、妄想から目を覚ますきっかけを永遠に失ってしまったようにみえる。ポール・シュレイダーが手がけた脚本は多くを語らないことで、この作品が悲劇なのか喜劇なのか、観客の理性に判断を委ねている。