アインシュタインがオッペンハイマーの危機を救ったワケ
アインシュタインが訪米していた1933年、ドイツではナチスの独裁者アドルフ・ヒトラーが、国家に対する罪としてユダヤ人排斥をマニフェストに掲げて台頭した。アインシュタイン自身は、非暴力の哲学の上にキャリアを築いており、第32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト宛に核兵器の可能性について警告する書簡を送っている。
映画『オッペンハイマー』は歴史を忠実に再現しようとしており、アインシュタインVS米軍の険悪な関係が描かれている。アインシュタインは平和主義者であり、「マンハッタン計画」に携わる際、政府が保有する機密情報へのアクセス許可を拒否されていたという。
オッペンハイマーとアインシュタインの2人は、研究分野に類似点があることから面識があった。しかし1947年から高等研究所に勤務するまでは、この2人の間にはほとんど交流がなかった。
というのも、アインシュタインは科学の中で現状維持を望む「守旧派」の一人であった。しかし、オッペンハイマーが物理学者として独り立ちした時期は、多くの物理学的理論が出そろっている「応用の時代」であった。アインシュタインはオッペンハイマーほど応用科学に対し積極的な姿勢ではなかったのだ。
しかしアインシュタインは、1954年にオッペンハイマーが米国政府の調査対象になった際、それまで蜜月の関係を築いていたわけではないにもかかわらず、オッペンハイマーのことを擁護。活動家ジーン・タトロック(フローレンス・ピュー)との不倫関係や学内の政治団体との関わりから、オッペンハイマーは、党員ではないが共産主義の支持者シンパとして告発されていたのだ。
アインシュタインは公聴会の間、オッペンハイマーを支持し、彼には政府が率先して行っていた「魔女狩りに身をさらす義務はない」と述べた。さらにはオッペンハイマーに対して、自分がしたように米国に背を向けるように勧めている。
アインシュタインは核兵器に対する恐れを頻繁に公言し続けていたのだ。その後アインシュタインは晩年の10年間、オッペンハイマーと親交を深めた。