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ヨルゴス・ランティモスの映画作法がもたらす違和感

憐れみの3章
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 前作『哀れなるものたち』の成功要因はひとつではないが、あえてひとつに絞るなら、フェミニズム要素を盛った物語展開の力強さ、意義深さが現代観客を惹きつけ、グロテスク描写に対する観客の忌避感をかろうじて打ち消したことにあるだろう。

 A24の独壇場だった守備範囲を、『哀れなるものたち』のディズニーはついに侵食することに成功したのである。また、日本では興行失敗に終わり、なおかつ保守的客層からのブーイングにさえさらされた『バービー』(2023)が本来収穫すべきだったフェミニズム・ブロックバスターという新ジャンルの実りを、半年遅れの公開という絶妙なタイミングがものを言った『哀れなるものたち』が総取りした格好になったと言える。

 ただし、ここで突如として私見を述べさせてもらうのだが、『哀れなるものたち』におけるランティモスの映画作法には、完全には賛同し得ないものがある。

 たとえば次のような非常に重要なシーン――娼館で働き始めたベラ(エマ・ストーン)が親友となった黒人娼婦トワネット(スージー・ベンバ)と連れだって、社会主義の女性集会に参加するために娼館を出発する姿が描かれる。しかしそこでは社会的自覚に目覚めた女性像という紋切り型が提示されたに終始し、ランティモスのナルシスティックなノルマクリアにしか見えないのである。

 ベラとトワネットの思想行動は、イタリアの女性監督スザンナ・ニッキャレッリによる『ミス・マルクス』(2020)の主題に接続されうるものであり、カール・マルクスの娘エリノア・マルクスの主導のもとで社会主義とフェミニズムが結びついていくヴィクトリア朝後期における重要局面を実り豊かに織り込みえたはずなのに、ランティモスはただ単にそれを、「エマとトワネットは集会に出かけていきました」という歩行シーンのみの上っ面描写で済ませている。

 筆者がランティモスという作家を真底からは依然として信用しえないのは、そうした点においてである。

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