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3度繰り返される支配/抑圧の構造と遁走/脱却の試み

憐れみの3章
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『憐れみの3章』はどうか。今回もまた、これまでのほぼすべてのランティモス作品と同様に、人工的な物語、人工的な登場人物、人工的な環境だけがしつらえられている。そして人間関係は極端なまでに垂直性が強調され、そこでは支配/抑圧の構造によって塗り込められている。

 さらに、そこからの遁走/脱却。『籠の中の乙女』(2009)や『ロブスター』(2015)といった初期作品からそうだったように、ランティモス映画はつねに支配/抑圧の構造によって念入りに塗り込められた上で、そこからの遁走/脱却の試みも素描される。ただし遁走/脱却の試みはいつも拙劣なものに終始し、成功することはないという結論があらかじめ用意されている。

『哀れなるものたち』だけは例外的に、フェミニズムを前面に打ち出した効果によって、主人公ベラによる遁走/脱却の試みがあたかもギリシャ神話の放蕩息子ユリシーズの帰還をなぞるかのように、あざやかな大逆転劇を呼びこみ、家父長制的な支配/抑圧の構造の突破と復讐に成功する。

 しかし今回は、脚本家の交代がカギになっているかもしれない。『女王陛下のお気に入り』『哀れなるものたち』で脚本を担当したオーストラリア人トニー・マクナマラに代わって、ギリシャ時代からの盟友エフティミス・フィリップが脚本家として復帰した。そして予想どおり、支配/抑圧の構造による塗り込めと、遁走/脱却の拙劣な試みが再びセットで反復されることになる。

 さらにこのセットの反復をよりいっそう重層化させるためか、『憐れみの3章』の164分は3分割され、1本の映画の中で支配/抑圧の構造と遁走/脱却の試みが3度も変奏され、反復される事態を招いている。

 3章の各登場人物を同一役者が役替えしながら演じ分けることによって、人物類型の可塑性、および相互交換性もかさねがさね強調されるにおよんだ。しかしどれほど手を替え品を替え変奏しようとも、愛車ダッジ・チャレンジャーのアクセルを踏みこんで猛スピードで駆け抜けようとも、構造の閉塞性はなんら変わらない。だからこの映画では奇抜な事件がいろいろと起こりはしても、映画全体としては非常に冷めており、心ここに在らずである。

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