モノクロ化で鮮明になった山崎貴の演出意図
まず一見して違いを感じられたのは役者たちの演技である。役者たちの表情による演技、たとえば眉や目線だけでなく頬などを駆使した繊細な表現力がモノクロであることではっきりと見て取れるようになっている。
なかでも「目」の演技には引き込まれてしまう。モノクロ化によって顔の部位の陰影が強調され、色彩が削ぎ落とされることによって画面の情報量がグッと絞られ、人物たちの表情の機微がダイレクトに理解できるのだ。演技とはこれほどまでに繊細で凄みのあるものだと本バージョンで改めて感じることができるのは驚きであった。
もうひとつはカラー版のときから印象的だった役者たちの顔つきである。劇中に登場する人々はまさに戦中戦後の記録フィルムなどで見られたような顔立ちの俳優がそれぞれのシーンで配置されていることに気づく。
それだけでもかなり時代の雰囲気が感じられるが、それに重ねてモノクロというフィルターは現代の我々にとって無意識に過去であることをイメージさせるため、逆説的に“あの時代に生きていた人々の実在感”を際立たせる。
ゴジラが銀座を蹂躙するシーンで逃げ惑う人々や茫然と立ちすくむ人々の顔、駆逐艦雪風の元艦長(田中美央)をリーダーとする「巨大生物對策説明会」に集まった元海軍兵の面々など、エキストラや画面の端端に映る人々まで、あの時代を描くためにキャスティングにも念入りに考えぬかれているのも見て取れる。
とどのつまり、『ゴジラ-1.0』モノクロ版は、従来のバージョンよりも山崎貴の演出意図がクリアに伝わる作品となっているのだ。