時代に背を向けて徹底した空間描写に勝負をかける
ここまで物語とキャストに着目することで本作の魅力に迫ってきたが、最後に「なぜ本作は169分もあるのか」という素朴な疑問を考察して文章を閉じよう。
15年ぶりの新作となった『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』(154分)、シリーズ最終章の第一弾『ミッション:インポッシブル デッドレコニング PART ONE』(164分)と比べても、本作の169分という上映時間は、群を抜いてというほどではないにせよ、頭一つ抜けて長く、長尺化が著しい近年のハリウッド映画の中でも際立っている。
『インディ・ジョーンズ』と『ミッション:インポッシブル』との比較を続けると、前者の場合は第二次世界大戦の末期にはじまり、1969年の夏に舞台が移るなど、時間軸の飛躍が一つの見どころとなっていた。一方、後者は回想シーンがあるわけではないものの、過去作の登場人物が多数登場。次回作に向け伏線を張り巡らせる作業が丁寧になされており、そうした要素が映画を長くしていた。
一方、本作に目を転じると、複数の時間軸が描かれているわけでもなければ、登場人物が取り立てて多いわけでもなく、複雑な伏線が張り巡らされているわけでもない。それにもかかわらず、上記2作品よりも尺が長いのは、ひとえに一つ一つのアクションシーンが異様に引き伸ばされているからだ。
今年のアカデミー賞を席巻した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』では、複数の世界線を越境するような形でアクションが展開され、観客の度肝を抜いた。かたや、本作は時代の潮流に背を向けるように、徹底して空間描写に勝負をかけている。
中東であれば砂漠、日本であれば桜と侍、テクノミュージックの聖地・ベルリンであればナイトクラブ、パリであれば凱旋門と、各都市の特色を色濃く押し出し、空間ごとの差異を強調する演出もそうした戦略の一環だろう。舞台が変わるたびに印象も劇的に変わらないと、観る者が飽きてしまうからだ。
また、時間軸を複雑な操作するアクション映画が知的興奮をかき立てるのに対し、空間描写に勝負をかける本作は観客の本能に直接訴えかける。ありきたりなアクション描写だと飽きられるのは必至。
そこで本作の製作陣がとった対応策は、一つのシーンに映画数本分のアクションをぶち込むことで、スペクタクルをひたすら引き伸ばすというもの。本作のアクション映画としての強みは長すぎる上映時間と表裏一体である。つまり、長尺だから価値があるのだ。