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キリスト者フェリーニが描出する“魂の救済”ー脚本の魅力

フェデリコ・フェリーニ
フェデリコフェリーニ監督Getty Images

本作には、随所にキリスト教的なモチーフが組み込まれている。

最も有名なのは、自分自身が役立たずだと嘆くジェルソミーナに、綱渡りの芸人イル・マットが次のように問いかけるシーンだろう。

「この世の中にあるものは何かの役に立つんだ。例えばこの石だ。こんな小石でも何か役に立ってる(…)神様はご存知だ。お前が生れる時も死ぬ時も人間にはわからん。おれには小石が何の役に立つかわからん。何かの役に立つ。これが無益ならすべて無益だ。空の星だって同じだとおれは思う」

全てのものが役に立つー。このマットのセリフには、世界中の万物が神の被造物であり、何かをすることよりも「存在することそのものに意味がある」とするキリスト教的な世界観が垣間見える。

また、本作のラスト、粗野だったザンパノがジェルソミーナの死をきっかけに悔い改めるシーンには、アダム(=人類)の身代わりとして到来し、人類の罪を背負って死んでいったイエス・キリストを連想させる。

では、なぜ、本作にはこのようなモチーフが散りばめられているのか。手がかりとなるのは、フェリーニ自身の半生だ。

敬虔なキリスト教徒だったフェリーニは、子どもの頃には神学校に通っていた。しかし、たびたび脱走してサーカス小屋に逃げ込んだり、10代で駆け落ちをして放浪生活をしたりと放蕩三昧の日々を送っていたという。

また、本作の主人公ザンパノも、子供の頃に近所に住んでいたという豚の去勢を生業としたジプシーが、知的障がいのある若い子どもを妊娠させてしまったという身も蓋もないエピソードからインスピレーションを得たという。

「神の愛は信じぬ者にも及ぶ」という思いで本作を作ったと語るフェリーニ。本作には、自身の幼年期や、思い出深い人々に対する救済の思いが溢れているのかもしれない。

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